TITLE : 遠野物語 付・遠野物語拾遺 本作品の全部または一部を無断で複製、転載、配信、送信したり、 ホームページ上に転載することを禁止します。また、本作品の内容 を無断で改変、改ざん等を行うことも禁止します。 本作品購入時にご承諾いただいた規約により、有償・無償にかかわ らず本作品を第三者に譲渡することはできません。 本書は著作権継承者の了解を得て、現代表記法により、原文を新字・新かなづかいにしたほか、漢字の一部をひらがなに改めました。 (編集部) 目 次 初版序文 再版覚え書き 遠野物語 遠野物語拾遺       編輯・鈴木棠三 初版序文  この話はすべて遠野の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨明治四十二年の二月頃より始めて夜分をりをり訪ね来たり、この話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり。思ふに遠野郷にはこの類の物語なほ数百件あるならん。われわれはより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所には、また無数の山神山人の伝説あるべし。願はくはこれを語りて平地人を戦《せん》慄《りつ》せしめよ。この書のごときは陳《ちん》勝《しよう》呉《ご》広《くわう》のみ。  昨年八月の末自分は遠野郷に遊びたり。花巻より十余里の路上には町《まち》場《ば》三か所あり。その他はただ青き山と原野なり。人煙の稀《き》少《せう》なること北海道石狩の平野よりもはなはだし。あるいは新道なるがゆゑに民居の来たりつける者少なきか。遠野の城下はすなはち煙花の街なり。馬を駅亭の主人に借りて独《ひと》り郊外の村々を巡りたり。その馬は黔《くろ》き海草をもちて作りたる厚《あつ》総《ぶさ》を掛けたり。虻多きためなり。猿が石の渓谷は土肥えてよく拓《ひら》けたり。路傍に石塔の多きこと諸国その比を知らず。高処より展望すれば早稲まさに熟し、晩稲は花盛りにて水はことごとく落ちて川にあり。稲の色合ひは種類によりてさまざまなり。三つ四つ五つの田を続けて稲の色の同じきは、すなはち一家に属する田にして、いはゆる名《みやう》処《しよ》の同じきなるべし。小《こ》字《あざ》よりさらに小さき区域の地名は、持主にあらざればこれを知らず。古き売買譲与の証文には常に見ゆるところなり。附《つく》馬《も》牛《うし》の谷へ越ゆれば早《はや》池《ち》峰《ね》の山は淡く霞み、山の形は菅笠のごとく、また片かなのヘの字に似たり。この谷は稲熟することさらに遅く満目一色に青し。細き田中の道を行けば名を知らぬ鳥ありて雛《ひな》を連れて横ぎりたり。雛の色は黒に白き羽まじりたり。始めは小さき鶏かと思ひしが、溝の草に隠れて見えざればすなはち野鳥なることを知れり。天神の山には祭りありて獅子踊りあり。ここにのみは軽く塵《ちり》たち、紅き物いささかひらめきて一村の緑に映じたり。獅子踊りといふは鹿の舞ひなり。鹿の角をつけたる面をかぶり童子五、六人剣を抜きてこれと共に舞ふなり。笛の調子高く歌は低くして側にあれども聞きがたし。日は傾きて風吹き酔ひて人呼ぶ者の声も淋しく女は笑ひ児は走れどもなほ旅愁を奈何《いかん》ともするあたはざりき。盂《う》蘭《ら》盆《ぼん》に新しき仏ある家は、紅白の旗を高く揚げて魂を招く風あり。峠の馬の上において東西を指点するに、この旗十数か所あり。村人の永住の地を去らんとする者と、かりそめに入り込みたる旅人と、またかの悠々たる霊山とを黄《たそ》昏《がれ》は徐に来たりて包容し尽くしたり。遠野郷には八か所の観音堂あり。一木をもちて作りしなり。この日報《ほう》賽《さい》の徒多く、岡の上に燈火見え伏鉦の音聞こえたり。道ちがへの叢の中には雨風祭りの藁人形あり。あたかもくたびれたる人のごとく仰臥してありたり。以上は自分が遠野郷にて得たる印象なり。  思ふにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとて、こんな本を出版し自己の狭隘なる趣味をもちて他人に強ひんとするは、無作法の仕業なりといふ人あらん。されどあへて答ふ。かかる話を聞きかかる処を見て来て後、これを人に語りたがらざる者はたしてありや。そのやうな沈黙にしてかつ慎み深き人は、少なくも自分の友人の中にはあることなし。いはんやわが九百年前の先輩『今昔物語』のごときは、その当時にありてすでに今は昔の話なりしに反し、これはこれ目前の出来事なり。たとへ敬虔の意と誠実の態度とにおいては、あへて彼を凌ぐことを得と言ふあたはざらんも、人の耳を経ること多からず、人の口と筆とを倩ひたることはなはだわづかなりし点においては、彼の淡泊無邪気なる大納言殿かへつて来たり聴くに値せり。近代の御《お》伽《とぎ》百物語の徒に至りてはその志やすでに陋《ろう》かつ決してその談の妄《まう》誕《たん》にあらざることを誓ひ得ず。ひそかにもつてこれと隣を比するを恥とせり。要するにこの書は現在の事実なり。単にこれのみをもつてするも立派なる存在理由ありと信ず。ただ鏡石子は年わづかに二十四五、自分もこれに十歳長ずるのみ。今の事業多き時代に生まれながら、問題の大小をもわきまへず、その力を用ゐる所当を失へりと言ふ人あらば如何。明神の山の木《みみ》兎《づく》のごとく、あまりにその耳を尖らしあまりにその眼を丸くしすぎたりと責むる人あらば如何。はて是非もなし。この責任のみは自分が負はねばならぬなり。 おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも 柳 田 国 男   再版覚え書き  前版の『遠野物語』には番号が打ってある。私はその第一号から順に何冊かを、話者の佐々木君に送った記憶がある。その頃友人の西洋に行っている者、またこれから出かけようとしている者が妙に多かったので、その人たちに送ろうと思って、あのような扉の文字(注‐此書を外国に在る人々に呈す)を掲げた。石黒忠篤君が船中でこの書を読んで、詳しい評をしてよこされた手紙などは、たしかまだどこかに保存してある。外国人の所蔵に属したものも、少なくとも七、八部はある。その他の三百ばかりも、ほとんど皆親族と知音とに頒《わ》けてしまった。全くの道楽仕事で、最初から市場にお目見えをしようとはしなかったのである。  この書の真価以上に珍重せられた理由はこれだと思う。今度も同じような動機で覆刻を急ぐことになったのだが、以前にも私は写しますなどという人がおりおりはあるので、多少の増訂をして二版を出そうと思い、郷土研究社にはその予告をさせ、かつ古本商には警告を与え、佐々木君にはもっと材料があるなら送ってくるように言ってやった。同君も大いに悦び、手帖にあるだけを全部原稿紙に清書して、ある時持って来て、どさりと私の机の上に置いた。これを読んでみるとなかなか面白いが、なにぶんにも数量が多く、また重複があり出したくないものがまじっている。これを選りわけて種類を揃え、字句を正したり削ったりするために、自分でもう一度書き改めようとした。あるいはきたなくとも元の文章に朱を加えた方が早かったかもしれない。自分の原稿がまだ半分ほどしか進まぬうちに、待ちかねて佐々木君が『聴《きき》耳《みみ》草《そう》紙《し》』を出してしまった。  『聴耳草紙』は昔話集であるのだが、あの中には私がこちらへ載せるつもりでいた口碑類を若干は取り入れてある。昔話も二つか三つ、ぜひとも『遠野物語』の拾遺として出そうと思っていたものが、聴耳の方で先に発表せられてしまった。そうでなくてもおくれがちであった仕事が、これでいよいよ拍子抜けをして、ついに佐々木君の生前に、もう一度悦ばせることができなかったのは遺憾である。  今度は事情がちがうから、二十五年前の『遠野物語』を重版するだけに止めておこうという意見もあったが、それではこれに追加するつもりで、せっかく故人の集めておいた資料が、散逸してしまうかもしれぬ懸《け》念《ねん》があるので、やはり最初の計画の通り、重複せぬかぎりは皆これを付載することにした。この中には自分が筆を執って書き改めたものが約半分、残りは鈴木君が同じ方針のもとに、刪定整理の労を取ってくれられた。順序体裁等はほぼ本編に準ずることにして、これまた同君に一任し、さらに『郷土研究』その他の雑誌に散見する佐々木君の報告で、性質の類似するものだけはこの中に加えておいた。こうして見ると初版の『遠野物語』ばかりが、事柄は同じであるのに文体がちがい、かつ引き離されてあることがいかにも理に合わない。あるいはこれも書き改めて、類をもって集めた方がよかったのかもしれぬが、それは自分にとって記念の意味があまりに薄くなるのみならず、一方旧本に対する無益の珍重沙汰が、なおいつまでも続かぬともかぎらぬ。そう大したものでなかったということを、ひろく告白するためにも原形を存しておいた方がよいと思うのである。  実際『遠野物語』の始めて出た頃には、世間はこれだけの事すらもまだ存在を知らず、またこれを問題にしようとするある一人の態度を、奇異とし好事と評していたようである。しかし今日は時勢が全く別である。こういう経験はもういくらでも繰り返され、それが一派の学業の対象として、大切なものだということもまた認められてきた。わずか一世紀の四分の一の間にも、進むべきものは必然に進んだ。これに比べるとわれわれの書斎生活が、依然として一見一聞の積み重ねに苦労していることは、むしろ恥じかつ歎かねばならぬのである。少なくとも遠野の一渓谷ぐらいは、いま少しく説明しやすくなっていてもよいはずであったが、伊能翁はまず世を謝し、佐々木君は異郷に客死し、当時の同志は四散して消息相通ぜず、自分もまた年頃企てていた広遠野譚の完成を、断念しなければならなくなっている。かくのごときは明らかに蹉《さ》跌《てつ》の例であって、毫も後代に誇示すべきものではない。嗣いで起こるべき少壮の学徒は、むしろこの一書を繙《ひもと》くことによって、相戒めてさらに切実なる進路を見出そうとするであろう。それがまたわれわれの最大なる期待である。 昭和十年六月 柳 田 国 男 遠野物語  題 目 下の数字は話の番号なり 地 勢 一、五、六七、一一一 神の始 二、六九、七四 里の神 九八  カクラサマ 七二‐七四  ゴンゲサマ 一一〇 家の神 一六  オクナイサマ 一四、一五、七〇  オシラサマ 六九  ザシキワラシ 一七、一八 山の神 八九、九一、九三、一〇二、一〇七、一〇八 神 女 二七、五四 天 狗 二九、六二、九〇 山 男 五、六、七、九、二八、三〇、三一、九二 山 女 三、四、三四、三五、七五 山の霊異 三二、三三、六一、九八 仙人堂 四九 蝦夷の跡 一一二 塚と森と 六六、一一一、一一三、一一四 姥 神 六五、七一 館の址 六七、六八、七六 昔の人 八、一〇、一一、一二、二一、二六、八四 家のさま 八〇、八三 家の盛衰 一三、一八、一九、二四、二五、三八、六三  マヨヒガ 六三、六四 前 兆 二〇、五二、七八、九六 魂の行方 二二、八六‐八八、九五、九七、九九、一〇〇 まぼろし 二三、七七、七九、八一、八二 雪 女 一〇三 河 童 五五‐五九 猿の経《ふつ》立《たち》 四五、四六 猿 四七、四八 狼《おいぬ》 三六‐四二 熊 四三 狐 六〇、九四、一〇一 いろいろの鳥 五一‐五三 花 三三、五〇 小正月の行事 一四、一〇二‐一〇五 雨風祭 一〇九 昔 々 一一五‐一一八 歌 謡 一一九 一 遠《とほ》野《の》郷《がう》は今の陸中上《かみ》閉《へ》伊《い》郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土《つち》淵《ぶち》、附《つく》馬《も》牛《うし》、松崎、青笹、上《かみ》郷《がう》、小《を》友《とも》、綾《あや》織《おり》、鱒《ます》沢《ざは》、宮《みや》守《もり》、達《たつ》曾《そ》部《べ》の一町十か村に分かつ。近代あるいは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠《とほ》野《の》保《ほ》とも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなはち一郷の町《まち》場《ば》にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいふ。この地へ行くには花《はな》巻《まき》の停車場にて汽車を下り、北《きた》上《かみ》川《がは》を渡り、その川の支流猿が石川の渓を伝ひて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝へ言ふ、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿が石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿が石に落ち合ふものはなはだ多く、俗に七《なな》内《ない》八《や》崎《さき》ありと称す。内《ない》は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。 二 遠野の町は南北の川の落合にあり。以前は七《*》七十里とて、七つの渓谷各七十里の奥より売買の貨物を聚《あつ》め、その市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早《はや》池《ち》峰《ね》といふ。北の方附《つく》馬《も》牛《うし》の奥にあり。東の方には六《ろつ》角《こ》牛《うし》山立てり。石神といふ山は附馬牛と達《たつ》曾《そ》部《べ》との間にありて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひてこの高原に来たり、今の来《らい》内《ない》村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止まりしを、末の姫眼覚めてひそかにこれを取り、わが胸の上に載せたりしかば、つひに最も美しき早池峰の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各三つの山に住し、今もこれを領したまふゆゑに、遠野の女どもはその妬《ねた》みを恐れて今もこの山には遊ばずといへり。(注 この一里は小道すなはち坂東道なり。一里が五丁または六丁なり) 三 山々の奥には山人住めり。栃《*とち》内《ない》村和《わ》野《の》の佐々木嘉兵衛といふ人は今も七十余にて生存せり。この翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、はるかなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳《くしけづ》りてゐたり。顔の色きはめて白し。不敵の男なれば直に銃《つつ》を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。そこに馳《か》け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。後の験《しるし》にせばやと思ひてその髪をいささか切り取り、これを綰《わが》ねて懐に入れ、やがて家路に向かひしに、道の程にて耐へがたく睡眠を催しければ、しばらく物蔭に立ち寄りてまどろみたり。その間夢と現《うつつ》との境のやうなる時に、これも丈《たけ》の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立ち去ると見ればたちまち睡りは覚めたり。山男なるべしといへり。(注 土淵村大字栃内) 四 山口村の吉兵衛といふ家の主人、根《ねつ》子《こ》立《だち》といふ山に入り、笹《ささ》を苅《か》りて束となし担《かつ》ぎて立ち上がらんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉《をさな》児《ご》を負ひたるが笹原の上を歩みてこちらへ来るなり。きはめてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結び付けたる紐《ひも》は藤の蔓《つる》にて、著《き》たる衣類は世の常の縞《しま》物《もの》なれど、裾のあたりはぼろぼろに破れたるを、いろいろの木の葉などを添へて綴《つづ》りたり。足は地につくとも覚えず。事もなげにこちらに近より、男のすぐ前を通りて何《いづ》方《かた》へか行き過ぎたり。この人はその折の恐ろしさより煩ひ始めて、久しく病みてありしが、近き頃亡《う》せたり。 五 遠野郷より海岸の田ノ浜、吉《き》利《り》吉《き》里《り》などへ越ゆるには、昔より笛《ふえ》吹《ふき》峠《たうげ》といふ山路あり。山口村より六角牛の方へ入り路のりも近かりしかど、近年この峠を越ゆる者、山中にて必ず山男山女に出逢ふより、誰も皆恐ろしがりてしだいに往来も稀になりしかば、つひに別の路を境《さかひ》木《げ》峠《だうげ》といふ方に開き、和《わ》山《やま》を馬《うま》次《つぎ》場《ば》として今はこちらばかりを越ゆるやうになれり。二里以上の迂路なり。 六 遠野郷にては豪農のことを今でも長者といふ。青笹村大字糠《*ぬかの》前《まへ》の長者の娘、ふと物に取り隠されて年久しくなりしに、同じ村の何某といふ猟師、ある日山に入りて一人の女に遭《あ》ふ。恐ろしくなりてこれを撃たんとせしに、何をぢではないか、ぶつなといふ。驚きてよく見ればかの長者がまな娘なり。何ゆゑにこんな処にはゐるぞと問へば、ある物に取られて今はその妻となれり。子もあまた生みたれど、すべて夫《をつと》が食ひ尽くして一人かくのごとくあり。おのれはこの地に一生涯を送ることなるべし。人にも言ふな。御身も危ふければ疾《と》く帰れといふままに、その在所をも問ひ明らめずして逃げ帰れりといふ。(注 糠前は糠の森の前にある村なり。糠の森は諸国の糠塚と同じ。遠野郷にも糠森糠塚多くあり) 七 上郷村の民家の娘、栗を拾ひに山に入りたるまま帰り来たらず。家の者は死したるならんと思ひ、女のしたる枕を形《かた》代《しろ》として葬式を執り行なひ、さて二、三年を過ぎたり。しかるにその村の者猟をして五《ご》葉《えふ》山《ざん》の腰のあたりに入りしに、大なる岩の蔽ひかかりて岩窟のやうになれる所にて、はからずこの女に逢ひたり。互ひにうち驚き、いかにしてかかる山にはゐるかと問へば、女の曰《いは》く、山に入りて恐ろしき人にさらはれ、こんな所に来たるなり。逃げて帰らんと思へど、いささかの隙もなしとのことなり。その人はいかなる人かと問ふに、自分には並の人間と見ゆれど、ただ丈《たけ》きはめて高く、眼の色少し凄しと思はる。子供も幾人か生みたれど、われに似ざればわが子にはあらずといひて食ふにや殺すにや、皆いづれへか持ち去りてしまふなりといふ。まことにわれわれと同じ人間かと押し返して問へば、衣類なども世の常なれど、ただ眼の色少しちがへり。一《*ひと》市《いち》間《あひ》に一度か二度、同じやうなる人四、五人集まり来て、何事か話をなし、やがて何《いづ》方《かた》へか出て行くなり。食物など外より持ち来たるを見れば町へも出ることならん。かく言ふうちにも今にそこへ帰つて来るかも知れずといふゆゑ、猟師も恐ろしくなりて帰りたりといへり。二十年ばかりも以前のことかと思はる。(注 一市間は遠野の町の市の日と次の市の日の間なり。月六度の市なれば一市間はすなはち五日のことなり) 八 黄《たそ》昏《がれ》に女や子供の家の外に出てゐる者はよく神隠しにあふことは他《よそ》の国々と同じ。松崎村の寒《さむ》戸《と》といふ所の民家にて、若き娘梨の樹の下に草《ざう》履《り》を脱ぎおきたるまま行方を知らずなり、三十年あまり過ぎたりしに、ある日親類知音の人々その家に集まりてありし処へ、きはめて老いさらぼひてその女帰り来たれり。いかにして帰つて来たかと問へば、人々に逢ひたかりしゆゑ帰りしなり。さらばまた行かんとて、ふたたび跡を留めず行き失せたり。その日は風の烈しく吹く日なりき。されば遠野郷の人は、今でも風の騒がしき日には、けふはサムトの婆が帰つて来さうな日なりといふ。 九 菊池弥之助といふ老人は若き頃駄賃を業とせり。笛の名人にて夜通しに馬を追ひて行く時などは、よく笛を吹きながら行きたり。ある薄月夜に、あまたの仲間の者と共に浜へ越ゆる境木峠を行くとて、また笛を取り出して吹きすさみつつ、大《おほ》谷《や》地《ち》といふ所の上を過ぎたり。大谷地は深き谷にて白樺の林しげく、その下は葦など生じ湿りたる沢なり。この時谷の底より何者か高き声にて面白いぞーと呼はる者あり。一同ことごとく色を失ひ逃げ走りたりといへり。 一〇 この男ある奥山に入り、茸《きのこ》を採るとて小屋を掛け宿りてありしに、深夜に遠き処にてきやーといふ女の叫び声聞こえ胸を轟かしたることあり。里へ帰りて見れば、その同じ夜、時も同じ刻限に、自分の妹なる女その息子のために殺されてありき。 一一 この女といふは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑との仲悪しくなり、嫁はしばしば親里へ行きて帰り来ざることあり。その日は嫁は家に在りて打ち臥《ふ》して居りしに、昼の頃になり突然と悴の言ふには、ガガはとても生かしてはおかれぬ、今日はきつと殺すべしとて、大なる草苅り鎌を取り出し、ごしごしと磨《と》ぎ始めたり。その有様さらに戯《たはむれ》言《ごと》とも見えざれば、母はさまざまに事を分けて詫びたれども少しも聴かず。嫁も起き出でて泣きながら諫《いさ》めたれど、つゆ従ふ色もなく、やがては母がのがれ出でんとする様子あるを見て、前後の戸口をことごとく鎖したり。便用に行きたしと言へば、おのれ自ら外より便器を持ち来たりてこれへせよといふ。夕方にもなりしかば母もつひにあきらめて、大なる囲《ゐ》炉《ろ》裡《り》の側にうづくまりただ泣きてゐたり。悴はよくよく磨ぎたる大鎌を手にして近より来たり、まづ左の肩口を目掛けて薙ぐやうにすれば、鎌の刃《は》先《さき》炉の上の火棚に引掛かりてよく斬れず。その時に母は深山の奥にて弥之助が聞き付けしやうなる叫び声を立てたり。二度目には右の肩より切り下げたるが、これにてもなほ死に絶えずしてあるところへ、里人ら驚きて馳けつけ悴を取り抑へ直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕へられ引き立てられて行くを見て、滝のやうに血の流るる中より、おのれは恨みも抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥《ゆる》したまはれと言ふ。これを聞きて心を動かさぬ者はなかりき。孫四郎は途中にてもその鎌を振り上げて巡査を追ひ廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里にあり。 一二 土淵村山口に新《につ》田《た》乙《おと》蔵《ざう》といふ老人あり。村の人は乙爺といふ。今は九十に近く病みてまさに死なんとす。年頃遠野郷の昔の話をよく知りて、誰かに話して聞かせおきたしと口癖のやうに言へど、あまり臭ければ立ち寄りて聞かんとする人なし。処々の館《たて》の主の伝記、家々の盛衰、昔よりこの郷に行なはれし歌の数々を始めとして、深山の伝説またはその奥に住める人々の物語など、この老人最もよく知れり。(注 惜しむべし、乙爺は明治四十二年の夏の始めになくなりたり) 一三 この老人は数十年の間山の中に独りにて住みし人なり。よき家柄なれど、若き頃財産を傾け失ひてより、世の中に思ひを絶ち、峠の上に小屋を掛け、甘酒を往来の人に売りて活計とす。駄賃の徒はこの翁を父親のやうに思ひて、親しみたり。少しく収入の余あれば、町に下り来て酒を飲む。赤毛布にて作りたる半《はん》纏《てん》を著て、赤き頭巾をかぶり、酔へば、町の中を躍りて帰るに巡査もとがめず。いよいよ老衰して後、旧里に帰りあはれなる暮らしをなせり。子供はすべて北海道へ行き翁ただ一人なり。 一四 部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマといふ神を祀《まつ》る。その家をば大《だい》同《どう》といふ。この神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布のまん中に穴を明け、これを上より通して衣裳とす。正月の十五日には小字中の人々この家に集まり来たりてこれを祭る。またオシラサマといふ神あり。この神の像もまた同じやうにして造り設け、これも正月の十五日に里人集まりてこれを祭る。その式には白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。この部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭ふ。枕を反すなどは常のことなり。あるひは誰かに抱き起こされ、または室より突き出さるることもあり。およそ静かに眠ることを許さぬなり。 一五 オクナイサマを祭れば幸多し。土淵村大字柏《かしは》崎《ざき》の長者阿部氏、村にては田《たん》圃《ぼ》の家といふ。この家にてある年田植の人手足らず、明日は空も怪しきに、わづかばかりの田を植ゑ残すことかなどつぶやきてありしに、ふと何方よりともなく丈低き小僧一人来たりて、おのれも手伝ひ申さんと言ふに任せて働かせておきしに、午飯時に飯を食はせんとて尋ねたれど見えず。やがて再び帰り来て終日、代《しろ》を掻きよく働きてくれしかば、その日に植ゑはてたり。どこの人かは知らぬが、晩には来て物を食ひたまへと誘ひしが、日暮れてまたその影見えず。家に帰りて見れば、縁側に小さき泥の足跡あまたありて、だんだんに座敷に入り、オクナイサマの神棚の所に止まりてありしかば、さてはと思ひてその扉を開き見れば、神像の腰より下は田の泥にまみれていませし由。 一六 コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今はおひおひとその事少なくなれり。 一七 旧家にはザシキワラシといふ神の住みたまふ家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。をりをり人に姿を見することあり。土淵村大字飯《いひ》豊《で》の今淵勘十郎といふ人の家にては、近き頃高等女学校にゐる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢ひ大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物をしてをりしに、次の間にて紙のがさがさといふ音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在の折なれば、怪しと思ひて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時の間坐りてをればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思へり。この家にも座敷ワラシ住めりといふこと、久しき以前よりの沙汰なりき。この神の宿りたまふ家は富貴自在なりといふことなり。 一八 ザシキワラシまた女の児なることあり。同じ山口なる旧家にて山口孫左衛門といふ家には、童女の神二人いませりといふことを久しく言ひ伝へたりしが、ある年同じ村の何某といふ男、町より帰るとて留《とめ》場《ば》の橋のほとりにて見馴れざる二人のよき娘に逢へり。物思はしき様子にてこちらへ来る。お前たちはどこから来たと問へば、おら山口の孫左衛門が処から来たと答ふ。これからどこへ行くのかと聞けば、それの村の何某が家にと答ふ。その何某はやや離れたる村にて、今も立派に暮らせる豪農なり。さては孫左衛門が世も末だなと思ひしが、それより久しからずして、この家の主従二十幾人、茸の毒にあたりて一日のうちに死に絶え、七歳の女の子一人を残せしが、その女もまた年老いて子なく、近き頃病みて失せたり。 一九 孫左衛門が家にては、ある日梨の木のめぐりに見馴れぬ茸のあまた生えたるを、食はんか食ふまじきかと男共の評議してあるを聞きて、最後の代の孫左衛門、食はぬがよしと制したれども、下男の一人がいふには、いかなる茸にても水桶の中に入れて苧《を》殻《がら》をもちてよくかき廻して後食へばけつしてあたることなしとて、一同この言に従ひ家内ことごとくこれを食ひたり。七歳の女の児はその日外に出でて遊びに気を取られ、昼飯を食ひに帰ることを忘れしために助かりたり。不意の主人の死去にて人々の動転してある間に、遠き近き親類の人々、あるひは生前に貸しありといひ、あるひは約束ありと称して、家の貨財は味《み》噌《そ》の類までも取り去りしかば、この村草分の長者なりしかども、一朝にして跡方もなくなりたり。 二〇 この兇変の前にはいろいろの前兆ありき。男ども苅り置きたる秣《まぐさ》を出すとて三ツ歯の鍬《くは》にて掻きまはせしに、大なる蛇を見出したり。これも殺すなと主人が制せしをも聴かずして打ち殺したりしに、その跡より秣の下にいくらともなき蛇ありて、うごめきいでたるを、男どもおもしろ半分にことごとくこれを殺したり。さて取り捨つべき所もなければ、屋敷の外に穴を掘りてこれを埋め、蛇塚を作る。その蛇は簣《あじか》に何《なん》荷《が》ともなくありたりといへり。 二一 右の孫左衛門は村には珍しき学者にて、常に京都より和漢の書を取り寄せて読み耽《ふけ》りたり。少し変人といふ方なりき。狐と親しくなりて家を富ます術を得んと思ひ立ち、まづ庭の中に稲荷の祠《ほこら》を建て、自身京に上りて正一位の神階を請けて帰り、それよりは日々一枚の油揚を欠かすことなく、手づから社頭に供へて拝をなせしに、後には狐馴れて近づけども逃げず。手を延ばしてその首を抑へなどしたりといふ。村にありし薬師の堂守は、わが仏様は何物をも供へざれども、孫左衛門の神様よりは御利益ありと、たびたび笑ひごとにしたりとなり。 二二 佐々木氏の曾祖母年よりて死去せし時、棺に取り納め親族の者集まり来てその夜は一同座敷にて寝たり。死者の娘にて乱心のため離縁せられたる婦人もまたその中にありき。喪の間は火の気を絶やすことを忌むが所の風なれば、祖母と母との二人のみは、大なる囲炉裡の両側に坐り、母人は旁に炭籠を置き、をりをり炭を継ぎてありしに、ふと裏口の方より足音して来る者あるを見れば、亡くなりし老女なり。平生腰かがみて衣物の裾の引きずるを、三角に取り上げて前に縫ひつけてありしが、まざまざとその通りにて、縞目にも目覚えあり。あなやと思ふ間もなく、二人の女の坐れる炉の脇を通り行くとて、裾にて炭取りにさはりしに、丸き炭取りなればくるくるとまはりたり。母人は気丈の人なれば振り返りあとを見送りたれば、親縁の人々の打ち臥したる座敷の方へ近より行くと思ふほどに、かの狂女のけたたましき声にて、おばあさんが来たと叫びたり。その余の人々はこの声に睡を覚しただ打ち驚くばかりなりしといへり。 二三 同じ人の二七日の逮《たい》夜《や》に、知音の者集まりて、夜更くるまで念仏を唱へ立ち帰らんとする時、門《かど》口《ぐち》の石に腰掛けてあちらを向ける老女あり。そのうしろつき正しく亡くなりし人の通りなりき。これは数多《あまた》の人見たるゆゑに誰も疑はず。いかなる執著のありしにや、つひに知る人はなかりしなり。 二四 村々の旧家を大同といふは、大同元年に甲斐国より移り来たる家なればかくいふとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるにあらざるか。 二五 大同の祖先たちが、始めてこの地方に到著せしは、あたかも歳の暮れにて、春のいそぎの門松を、まだ片方はえ立てぬうちにはや元旦になりたればとて、今もこの家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるままにて、標《しめ》縄《なは》を引き渡すとのことなり。 二六 柏崎の田圃のうちと称する阿倍氏はことに聞こえたる旧家なり。この家の先代に彫刻に巧みなる人ありて、遠野一郷の神仏の像にはこの人の作りたるもの多し。 二七 早《はや》池《ち》峰《ね》より出でて東北の方宮《みや》古《こ》の海に流れ入る川を閉伊川といふ。その流域はすなはち下閉伊郡なり。遠野の町の中にて今は池の端といふ家の先代の主人、宮古に行きての帰るさ、この川の原《はら》台《だい》の淵といふあたりを通りしに、若き女ありて一封の手紙を托す。遠野の町の後なる物見山の中腹にある沼に行きて、手を叩けば宛名の人出で来たるべしとなり。この人請け合ひはしたれども路々心にかかりてとつおいつせしに、一人の六部に行き逢へり。この手紙を開きよみて曰く、これを持ち行かば汝の身に大なる災あるべし。書き換へてとらすべしとてさらに別の手紙を与へたり。これを持ちて沼に行き教へのごとく手を叩きしに、はたして若き女出でて手紙を受け取り、その礼なりとてきはめて小さき石臼をくれたり。米を一粒入れて回せば下より黄金出づ。この宝物の力にてその家やや富有になりしに、妻なる者欲深くして、一度にたくさんの米をつかみ入れしかば、石臼はしきりに自ら回りて、つひには朝ごとに主人がこの石臼に供へたりし水の、小さき窪みの中に溜りてありし中へ滑り入りて見えずなりたり。その水溜りは後に小さき池になりて、今も家の旁《かたはら》にあり。家の名を池の端といふもそのためなりといふ。 二八 始めて早池峰に山路をつけたるは、附馬牛村の何某といふ猟師にて、時は遠野の南部家入部の後のことなり。その頃までは土地の者一人としてこの山には入りたる者なかりしなり。この猟師半分ばかり道を開きて、山の半腹に仮小屋を作りてをりし頃、ある日炉の上に餅を並べ焼きながら食ひをりしに、小屋の外を通る者ありてしきりに中を窺ふさまなり。よく見れば大なる坊主なり。やがて小屋の中に入り来たり、さも珍しげに餅の焼くるのを見てありしが、つひにこらへかねて手をさし延べて取りて食ふ。猟師も恐ろしければ自らもまた取りて与へしに、嬉しげになほ食ひたり。餅皆になりたれば帰りぬ。次の日もまた来るならんと思ひ、餅によく似たる白き石を二つ三つ、餅にまじへて炉の上に載せ置きしに焼けて火のやうになれり。案のごとくその坊主けふも来て、餅を取りて食ふこと昨日のごとし。餅尽きて後その白石をも同じやうに口に入れたりしが、大いに驚きて小屋を飛び出し姿見えずなれり。後に谷底にてこの坊主の死してあるを見たりといへり。 二九 鶏《けい》頭《とう》山《ざん》は早池峰の前面に立てる峻峰なり。麓の里にてはまた前《まへ》薬《やく》師《し》ともいふ。天《てん》狗《ぐ》住めりとて、早池峰に登る者もけつしてこの山は掛けず。山口のハネトといふ家の主人、佐々木氏の祖父と竹馬の友なり。きはめて無法者にて、鉞《まさかり》にて草を苅り鎌にて土を掘るなど、若き時は乱暴の振舞ひのみ多かりし人なり。ある時人と賭けをして一人にて前薬師に登りたり。帰りての物語に曰く、頂上に大なる岩あり。その岩の上に大男三人ゐたり。前にあまたの金銀をひろげたり。この男の近よるを見て、気《け》色《しき》ばみて振り返る、その眼の光きはめて恐ろし。早池峰に登りたるが途に迷ひて来たるなりと言へば、しからば送りてやるべしとて先に立ち、麓近き処まで来たり、眼を塞げと言ふままに、暫時そこに立ちてをる間に、たちまち異人は見えずなりたりといふ。 三〇 小《を》国《ぐに》村の何某といふ男、ある日早池峰に竹を伐りに行きしに、地竹のおびただしく茂りたる中に、大なる男一人寝てゐたるを見たり。地竹にて編みたる三尺ばかりの草履を脱ぎてあり。仰に臥して大なる鼾《いびき》をかきてありき。 三一 遠野郷の民家の子女にして、異人にさらはれて行く者年々多くあり。ことに女に多しとなり。 三二 千《せん》晩《ば》が嶽《たけ》は山中に沼あり。この谷は物すごく腥《なまぐさ》き臭のする所にて、この山に入り帰りたる者はまことに少なし。昔何の隼人といふ猟師あり。その子孫今もあり。白き鹿を見てこれを追ひこの谷に千晩こもりたれば山の名とす。その白鹿撃たれて逃げ、次の山まで行きて片肢折れたり。その山を今片《かた》羽《は》山《やま》といふ。さてまた前なる山へ来てつひに死したり。その地を死《し》助《すけ》といふ。死助権現とて祀れるはこの白鹿なりといふ。 三三 白《しろ》望《み》の山に行きて泊れば、深夜にあたりの薄明るくなることあり。秋の頃茸《きのこ》を採りに行き山中に宿する者、よくこの事に逢ふ。また谷のあなたにて大木を伐り倒す音、歌の声など聞こゆることあり。この山の大きさは測るべからず。五月に萱《かや》を苅りに行くとき、遠く望めば桐《きり》の花の咲き満ちたる山あり。あたかも紫の雲のたなびけるがごとし。されどもつひにそのあたりに近づくことあたはず。かつて茸を採りに入りし者あり。白望の山奥にて金の樋《とひ》と金の杓とを見たり。持ち帰らんとするにきはめて重く、鎌にて片端を削り取らんとしたれどもそれもかなはず。また来んと思ひて樹の皮を白くし栞《しをり》としたりしが、次の日人々と共に行きてこれを求めたれど、つひにその木のありかをも見出し得ずしてやみたり。 三四 白望の山続きに離《はなれ》森《もり》といふ所あり。その小字に長者屋敷といふは、全く無人の境なり。ここに行きて炭を焼く者ありき。ある夜その小屋の垂《た》れ菰《こも》をかかげて、内を窺ふ者を見たり。髪を長く二つに分けて垂れたる女なり。このあたりにても深夜に女の叫び声を聞くことは珍しからず。 三五 佐々木氏の祖父の弟、白望に茸を採りに行きて宿りし夜、谷を隔てたるあなたの大なる森林の前を横ぎりて、女の走り行くを見たり。中空を走るやうに思はれたり。待てちやアと二声ばかり呼ばはりたるを聞けりとぞ。 三六 猿の経《ふつ》立《たち》、御《お》犬《いぬ》の経立は恐ろしきものなり。御犬とは狼のことなり。山口の村に近き二《ふた》ツ石《いし》山《やま》は岩山なり。ある雨の日、小学校より帰る子どもこの山を見るに、処々の岩の上に御犬うづくまりてあり。やがて首を下より押し上ぐるやうにしてかはるがはる吠えたり。正面より見れば生まれ立ての馬の子ほどに見ゆ。後から見れば存外小さしといへり。御犬のうなる声ほど物凄く恐ろしきものはなし。 三七 境《さかひ》木《げ》峠《たうげ》と和《わ》山《やま》峠《たうげ》との間にて、昔は駄賃馬を追ふ者、しばしば狼に逢ひたりき。馬方等は夜行にはたいてい十人ばかりも群れをなし、その一人が牽く馬は一《ひと》端《は》綱《づな》とてたいてい五、六七匹までなれば、常に四、五十匹の馬の数なり。ある時二、三百ばかりの狼追ひ来たり、その足音山もどよむばかりなれば、あまりの恐ろしさに馬も人も一所に集まりて、そのめぐりに火を焼きてこれを防ぎたり。されどなほその火を躍り越えて入り来たるにより、つひには馬の綱を解きこれを張り回らせしに、穽《おとしあな》などなりとや思ひけん、それより後は中に飛び入らず。遠くより取り囲みて夜の明けるまで吠えてありきとぞ。 三八 小《を》友《とも》村の旧家の主人にて今も生存せる某爺といふ人、町より帰りにしきりに御犬の吠ゆるを聞きて、酒に酔ひたればおのれもまたその声をまねたりしに、狼も吠えながら跡より来るやうなり。恐ろしくなりて急ぎ家に帰り入り、門の戸を堅く鎖して打ち潜みたれども、夜通し狼の家をめぐりて吠ゆる声やまず。夜明けて見れば、馬屋の土台の下を掘り穿ちて中に入り、馬の七頭ありしをことごとく食ひ殺してゐたり。この家はその頃より産やや傾きたりとのことなり。 三九 佐々木君幼き頃、祖父と二人にて山より帰りしに、村に近き谷川の岸の上に、大なる鹿の倒れてあるを見たり。横腹は破れ、殺されて間もなきにや、そこよりはまだ湯気立てり。祖父の曰く、これは狼が食ひたるなり。この皮ほしけれども御犬は必ずどこかこの近所に隠れて見てをるに相違なければ、取ることができぬといへり。 四〇 草の長さ三寸あれば狼は身を隠すといへり。草木の色の移りゆくにつれて、狼の毛の色も季節ごとに変はりてゆくものなり。 四一 和野の佐々木嘉兵衛、ある年境木越の大《おほ》谷《や》地《ち》へ狩りにゆきたり。死《し》助《すけ》の方より走れる原なり。秋の暮れのことにて木の葉は散り尽くし山もあらはなり。向かふの峰より何百とも知れぬ狼こちらへ群れて走り来るを見て恐ろしさに堪へず、樹の梢に上りてありしに、その樹の下をおびただしき足音して走り過ぎ北の方へ行けり。その頃より遠野郷には狼はなはだ少なくなれりとのことなり。 四二 六《ろつ》角《こ》牛《うし》山の麓にヲバヤ、板小屋などいふ所あり。広き萱山なり。村々より苅りに行く。ある年の秋飯《いひ》豊《で》村の者ども萱を苅るとて、岩穴の中より狼の子三匹を見出し、その二つを殺し一つを持ち帰りしに、その日より狼の飯《いひ》豊《で》衆《し》の馬を襲ふことやまず。外の村々の人馬にはいささかも害をなさず。飯豊衆相談して狼狩りをなす。その中には相撲を取り平生力自慢の者あり。さて野にいでて見るに、雄の狼は遠くにをりて来たらず。雌狼一つ鉄といふ男に飛びかかりたるを、ワツポロ(上張り)を脱ぎて腕に巻き、やにはにその狼の口の中に突込みしに、狼これを噛む。なほ強く突き入れながら人を喚《よ》ぶに、誰も誰も怖れて近よらず。その間に鉄の腕は狼の腹まで入り、狼は苦しまぎれに鉄の腕骨を噛み砕きたり。狼はその場にて死したれども、鉄も担がれて帰り程なく死したり。 四三 一昨年の遠野新聞にもこの記事を載せたり。上郷村の熊といふ男、友人と共に雪の日に六角牛に狩りに行き谷深く入りしに、熊の足跡を見いでたれば、手分けしてその跡を覓《もと》め、自分は峰の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊こちらを見る。矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてて熊に抱へ付き雪の上を転びて、谷へ下る。連れの男これを救はんと思へども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その隙《ひま》に獣の熊を打ち取りぬ。水にも溺《おぼ》れず、爪の傷は数か所受けたれども命にさはることはなかりき。 四四 六角牛の峰続きにて、橋《はし》野《の》といふ村の上なる山に金坑あり。この鉱山のために炭を焼きて生計とする者、これも笛の上手にて、ある日昼の間小屋にをり、仰向けに寝転びて笛を吹きてありしに、小屋の口なる垂れ菰をかかぐる者あり。驚きて見れば猿の経《ふつ》立《たち》なり。恐ろしくて起き直りたれば、おもむろにかなたへ走り行きぬ。 四五 猿の経立はよく人に似て、女色を好み里の婦人を盗み去ること多し。松《まつ》脂《やに》を毛に塗り砂をその上につけてをるゆゑ、毛皮は鎧《よろひ》のごとく鉄砲の弾も通らず。 四六 栃内村の林《はやし》崎《ざき》に住む何某といふ男、今は五十に近し。十年あまり前のことなり。六角牛山に鹿を撃ちに行き、オキ(鹿笛)を吹きたりしに、猿の経立あり、これを真の鹿なりと思ひしか、地竹を手にて分けながら、大なる口をあけ嶺の方より下り来たれり。胆潰れて笛を吹き止めたれば、やがて反れて谷の方へ走り行きたり。 四七 この地方にて子供をおどす言葉に、六角牛の猿の経立が来るぞといふこと常の事なり。この山には猿多し。緒《を》〓《がせ》の滝を見に行けば、崖の樹の梢にあまたをり、人を見れば逃げながら木の実などを擲《なげう》ちて行くなり。 四八 仙人峠にもあまた猿をりて行人に戯れ石を打ち付けなどす。 四九 仙人峠は登り十五里降り十五里あり。その中ほどに仙人の像を祀りたる堂あり。この堂の壁には旅人がこの山中にて遭ひたる不思議の出来事を書き識《しる》すこと昔よりの習ひなり。たとへば、われは越後の者なるが、何月何日の夜、この山路にて若き女の髪の垂れたるに逢へり。こちらを見てにこと笑ひたりといふ類なり。またこの所にて猿に悪戯をせられたりとか、三人の盗賊に逢へりといふやうなる事をも記せり。 五〇 死《し》助《すけ》の山にカツコ花あり。遠野郷にても珍しといふ花なり。五月閑《かん》古《こ》鳥の啼《な》く頃、女や子どもこれを採りに山へ行く。酢《す》の中に漬《つ》けておけば紫色になる。酸《ほほ》漿《づき》の実のやうに吹きて遊ぶなり。この花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。 五一 山にはさまざまの鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大《おほ》槌《づち》より駄《だ》賃《ちん》附《づけ》の者など峠を越え来れば、はるかに谷底にてその声を聞くといへり。昔ある長者の娘あり。またある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮れになり夜になるまで探しあるきしが、これを見つくることを得ずして、つひにこの鳥になりたりといふ。オツトーン、オツトーンといふは夫《をつと》のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴き声なり。 五二 馬追ひ鳥は時鳥《ほととぎす》に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞《しま》あり。胸のあたりにクツゴコ(口籠)のやうなるかたあり。これもある長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通しこれを求めあるきしがつひにこの鳥となる。アーホー、アーホーと啼くはこの地方にて野にゐる馬を追ふ声なり。年により馬追ひ鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。 五三 郭《くわく》公《こう》と時鳥とは昔有りし姉妹なり。郭公は姉なるがある時芋を掘りて焼き、そのまはりの堅き所を自ら食ひ、中の軟かなる所を妹に与へたりしを、妹は姉の食ふ方はいつさう旨《うま》かるべしと想ひて、庖丁にてその姉を殺せしに、たちまちに鳥となり、ガンコ、ガンコと啼きて飛び去りぬ。ガンコは方言にて堅い所といふことなり。妹さてはよき所をのみおのれにくれしなりけりと思ひ、悔恨に堪へず、やがてまたこれも鳥になりて庖丁かけたと啼きたりといふ。遠野にては時鳥のことを庖丁かけと呼ぶ。盛岡辺にては時鳥はどちやへ飛んでたと啼くといふ。 五四 閉《へ》伊《い》川《がは》の流れには淵多く恐ろしき伝説少なからず。小国川との落合に近き所に、川井といふ村あり。その村の長者の奉公人、ある淵の上なる山にて樹を伐るとて、斧を水中に取り落としたり。主人の物なれば淵に入りてこれを探りしに、水の底に入るままに物音聞こゆ。これを求めて行くに岩の陰に家あり。奥の方に美しき娘機を織りてゐたり。そのハタシに彼の斧は立てかけてありたり。これを返したまはらんといふ時、振り返りたる女の顔を見れば、二、三年前に身まかりたるわが主人の娘なり。斧は返すべければわれがここにあることを人に言ふな。その礼としてはその方身《しん》上《しやう》良くなり、奉公をせずともすむやうにしてやらんと言ひたり。そのためなるか否かは知らず、その後胴《どう》引《びき》などいふ博奕《ばくち》に不思議に勝ち続けて金たまり、ほどなく奉公をやめ家に引込みて中位の農民になりたれど、この男は疾《と》くに物忘れして、この娘の言ひしことも心付かずしてありしに、ある日同じ淵の辺を過ぎて町へ行くとて、ふと前の事を思ひ出し、伴へる者に以前かかることありきと語りしかば、やがてその噂は近郷に伝はりぬ。その頃より男は家産再び傾き、また昔の主人に奉公して年を経たり。家の主人は何と思ひしにや、その淵に何《なん》荷《が》ともなく熱湯を注ぎ入れなどしたりしが、何の効もなかりしとのことなり。 五五 川には河童《かつぱ》多く住めり。猿が石川ことに多し。松崎村の川端の家にて、二代まで続けて河童の子を孕《はら》みたる者あり。生まれし子は斬り刻みて一升樽に入れ、土中に埋めたり。その形きはめて醜怪なるものなりき。女の婿の里は新張村の何某とて、これも川端の家なり。その主人人にその始終を語れり。かの家の者一同ある日畠に行きて夕方に帰らんとするに、女川の汀《みぎは》にうづくまりてにこにこと笑ひてあり。次の日は昼の休みにまたこの事あり。かくすること日を重ねたりしに、しだいにその女の所へ村の何某といふ者夜々通ふといふ噂立ちたり。始めには婿が浜の方へ駄賃附に行きたる留守をのみ窺ひたりしが、後には婿と寝たる夜さへ来るやうになれり。河童なるべしといふ評判だんだん高くなりたれば、一族の者集まりてこれを守れども何の甲斐もなく、婿の母も行きて娘の側に寝たりしに、深夜にその娘の笑ふ声を聞きて、さては来てありと知りながら身動きもかなはず、人々いかにともすべきやうなかりき。その産はきはめて難産なりしが、ある者の言ふには、馬《うま》槽《ふね》に水をたたへその中にて産まば安く産まるべしとのことにて、これを試みたればはたしてその通りなりき。その子は手に水掻きあり。この娘の母もまたかつて河童の子を産みしことありといふ。二代や三代の因縁にはあらずと言ふ者もあり。この家も如法の豪家にて何の某といふ士族なり。村会議員をしたることもあり。 五六 上郷村の何某の家にても河童らしき物の子を産みたることあり。確かなる証とてはなけれど、身内まつ赤にして口大きく、まことにいやな子なりき。忌はしければ棄てんとてこれを携へて道ちがへに持ち行き、そこに置きて一間ばかりも離れたりしが、ふと思ひ直し、惜しきものなり、売りて見せ物にせば金になるべきにとて立ち帰りたるに、早取り隠されて見えざりきといふ。 五七 川の岸の砂の上には河童の足跡といふものを見ること決して珍しからず。雨の日の翌日などはことにこの事あり。猿の足と同じく親指は離れて人間の手の跡に似たり。長さは三寸に足らず。指先のあとは人ののやうに明らかには見えずといふ。 五八 小《こ》烏《がら》瀬《せ》川《がは》の姥《をば》子《こ》淵《ふち》の辺に、新《しん》屋《や》の家《うち》といふ家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、河童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩《うまや》の前に来たり、馬槽に覆はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば河童の手いでたり。村中の者集まりて殺さんか宥《ゆる》さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬといふ堅き約束をさせてこれを放したり。その河童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりといふ。 五九 外の地にては河童の顔は青しといふやうなれど、遠野の河童は面《つら》の色赭《あか》きなり。佐々木氏の曾祖母、穉《をさな》かりし頃友だちと庭にて遊びてありしに、三本ばかりある胡桃《くるみ》の木の間より、まっ赤なる顔したる男の子の顔見えたり。これは河童なりしとなり。今もその胡桃大木にてあり。この家の屋敷のめぐりはすべて胡桃の樹なり。 六〇 和野村の嘉兵衛爺雉《き》子《じ》小屋に入りて雉子を待ちしに、狐しばしば出でて雉子を追ふ。あまり憎ければこれを撃たんと思ひ狙ひたるに、狐はこちらを向きて何ともなげなる顔してあり。さて引き金を引きたれども火移らず。胸騒ぎして銃を検せしに、筒口より手元の処までいつの間にかことごとく土をつめてありたり。 六一 同じ人六角牛に入りて白き鹿に逢へり。白《はく》鹿《ろく》は神なりといふ言伝へあれば、もし傷つけて殺すことあたはずば、必ず祟《たた》りあるべしと思案せしが、名誉の猟人なれば世間の嘲りをいとひ、思ひ切りてこれを撃つに、手応へはあれども鹿少しも動かず。この時もいたく胸騒ぎして、平生魔除けとして危急の時のために用意したる黄金の丸《たま》を取り出し、これに蓬《よもぎ》を巻きつけて打ち放したれど、鹿はなほ動かず。あまり怪しければ近よりて見るに、よく鹿の形に似たる白き石なりき。数十年の間山中に暮らせる者が、石と鹿とを見誤るべくもあらず、全く魔《ま》障《しやう》の仕業なりけりと、この時ばかりは猟を止めばやと思ひたりきといふ。 六二 また同じ人、ある夜山中にて小屋を作るいとまなくて、とある大木の下に寄り、魔除けのサンヅ縄をおのれと木とのめぐりに三《み》囲《めぐり》引きめぐらし、鉄砲を竪《たて》に抱へてまどろみたりしに、夜深く物音のするに心付けば、大なる僧形の者赤き衣を羽のやうに羽ばたきして、その木の梢に蔽ひかかりたり。すはやと銃を放せばやがてまた羽ばたきして中空を飛びかへりたり。この時の恐ろしさも世の常ならず。前後三たびまでかかる不思議に遭ひ、そのたびごとに鉄砲を止めんと心に誓ひ、氏神に願掛けなどすれど、やがて再び思ひ返して年取るまで猟人の業を棄つることあたはずとよく人に語りたり。 六三 小《を》国《ぐに》の三浦某といふは村一の金持なり。今より二、三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯《ろ》鈍《どん》なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿ひて蕗《ふき》を採りに入りしに、よき物少なければしだいに谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くをり、馬舎ありて馬多くをれども、いつかうに人はをらず。つひに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳《ぜん》椀《わん》をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄《てつ》瓶《びん》の湯のたぎれるを見たり。されどもつひに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実《まこと》と思ふ者もなかりしが、またある日わが家のカ《*》ドに出でて物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れて来たり。あまり美しければ拾ひ上げたれど、これを食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケ《*》セネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾ひ上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸福に向かひ、つひに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガといふ。マヨヒガに行き当たりたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何物をも盗み来ざりしがゆゑに、この椀みづから流れて来たりしなるべしといへり。(注㈵ このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗ふため家ごとに設けたる所なり。注㈼ ケセネは米稗その他の穀物をいふ) 六四 金《*かね》沢《さは》村《むら》は白《しろ》望《み》の麓、上閉伊郡の内にてもことに山奥にて、人の往来する者少なし。六、七年前この村より栃内村の山崎なる某かかが家に娘の婿を取りたり。この婿実家に行かんとして山路に迷ひ、またこのマヨヒガに行き当たりぬ。家の有様、牛馬鶏の多きこと、花の紅白に咲きたりしことなど、すべて前の話の通りなり。同じく玄関に入りしに、膳椀を取り出したる室あり。座敷に鉄瓶の湯たぎりて、今まさに茶を煮んとするところのやうに見え、どこか便所などのあたりに人が立ちてあるやうにも思はれたり。茫然として後にはだんだん恐ろしくなり、引き返してつひに小《を》国《ぐに》の村里に出でたり。小国にてはこの話を聞きて実《まこと》とする者もなかりしが、山崎の方にてはそはマヨヒガなるべし、行きて膳椀の類を持ち来たり長者にならんとて、婿殿を先に立てて人あまたこれを求めて山の奥に入り、ここに門ありきといふ処に来たれども、眼にかかるものもなくむなしく帰り来たりぬ。その婿もつひに金持になりたりといふことを聞かず。(注 上閉伊郡金沢村) 六五 早《はや》池《ち》峰《ね》は御影石の山なり。この山の小国に向きたる側に安倍が城といふ岩あり。険しき崖の中ほどにありて、人などはとても行き得べき処にあらず。ここには今でも安《あ》倍《べの》貞《さだ》任《たふ》の母住めりと言ひ伝ふ。雨の降るべき夕方など、岩屋の扉を鎖《とざ》す音聞こゆといふ。小国、附《つく》馬《も》牛《うし》の人々は、安倍が城の錠の音がする、明日は雨ならんなどいふ。 六六 同じ山の附馬牛よりの登り口にもまた安倍屋敷といふ巌《がん》窟《くつ》あり。とにかく早池峰は安倍貞任にゆかりある山なり。小国より登る山口にも八幡太郎の家来の討死にしたるを埋めたりといふ塚三つばかりあり。 六七 安倍貞任に関する伝説はこの外にも多し。土淵村と昔は橋野といひし栗橋村との境にて、山口よりは二、三里も登りたる山中に、広く平らなる原あり。そのあたりの地名に貞任といふ所あり。沼ありて貞任が馬を冷やせし所なりといふ。貞任が陣屋を構へし址とも言ひ伝ふ。景色よき所にて東海岸よく見ゆ。 六八 土淵村には安倍氏といふ家ありて貞任が末なりといふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門、今も村にては二、三等の物持にて、村会議員なり。安倍の子孫はこの外にも多し。盛岡の安《あ》倍《べ》館《だて》の付近にもあり。厨《くりや》川《がは》の柵に近き家なり。土淵村の安倍家の四、五町北、小烏瀬川の河《かは》隈《くま》に館の址あり。八《はち》幡《まん》沢《ざは》の館といふ。八幡太郎が陣屋といふものこれなり。これより遠野の町への路にはまた八幡山といふ山ありて、その山の八幡沢の館の方に向かへる峰にもまた一つの館址あり。貞任が陣屋なりといふ。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦をしたりといふ言ひ伝へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。この間に似《に》田《た》貝《かひ》といふ部落あり。戦の当時このあたりは蘆しげりて土固まらず、ユキユキと動揺せり。ある時八幡太郎ここを通りしに、敵味方いづれの兵糧にや、粥《かゆ》を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かといひしより村の名となる。似田貝の村の外を流るる小川を鳴《なる》川《かは》といふ。これを隔てて足《あし》洗《ら》川《が》村あり。鳴川にて義家が足を洗ひしより村の名となるといふ。 六九 今の土淵村には大《だい》同《どう》といふ家二軒あり。山口の大同は当主を大《おほ》洞《ほら》万《まん》之《の》丞《じよう》といふ。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止まれる鳥を落としなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、つひに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のをらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋《すが》りて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマといふはこの時よりなりたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本《もと》にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在《ざい》家《け》権十郎といふ人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといへり。 七〇 同じ人の話に、オクナイサマはオシラサマのある家には必ず伴ひています神なり。されどオシラサマはなくてオクナイサマのみある家もあり。また家によりて神の像も同じからず。山口の大同にあるオクナイサマは木像なり。山口の辷《はね》石《いし》たにえといふ人の家なるは掛軸なり。田圃のうちにいませるはまた木像なり。飯《いひ》豊《で》の大同にもオシラサマはなけれどオクナイサマのみはいませりといふ。 七一 この話をしたる老女は熱心なる念仏者なれど、世の常の念仏者とは様かはり、一種邪宗らしき信仰あり。信者に道を伝ふることはあれども、互ひに厳重なる秘密を守り、その作法につきては親にも子にもいささかたりとも知らしめず。また寺とも僧とも少しも関係はなくて、在家の者のみの集まりなり。その人の数も多からず。辷《はね》石《いし》たにえといふ婦人などは同じ仲間なり。阿弥陀仏の斎日には、夜中人の静まるを待ちて会合し、隠れたる室にて祈祷す。魔法まじなひをよくするゆゑに、郷党に対して一種の権威あり。 七二 栃内村の字琴《こと》畑《ばた》は深山の沢にあり、家の数は五軒ばかり、小《こ》烏《がら》瀬《せ》川の支流の水上なり。これより栃内の民居まで二里を隔つ。琴畑の入口に塚あり。塚の上には木の座像あり。およそ人の大きさにて、以前は堂の中にありしが、今は雨ざらしなり。これをカクラサマといふ。村の子供これを玩物にし引き出して川へ投げ入れまた路上を引きずりなどするゆゑに、今は鼻も口も見えぬやうになれり。あるひは子供を叱り戒めてこれを制止する者あれば、かへりて祟りを受け病むことありといへり。 七三 カクラサマの木像は遠野郷のうちに数多あり。栃内の字西《にし》内《ない》にもあり。山口分の大《おほ》洞《ほら》といふ所にもありしことを記憶する者あり。カクラサマは人のこれを信仰する者なし。粗末なる彫刻にて、衣裳頭の飾りの有様も不分明なり。 七四 栃内のカクラサマは右の大小二つなり。土淵一村にては三つか四つあり。いづれのカクラサマも木の半身像にてなたの荒削りの不格好なるものなり。されど人の顔なりといふことだけはわかるなり。カクラサマとは以前は神々の旅をして休息したまふべき場所の名なりしが、その地に常います神をかく唱ふることとなれり。 七五 離《はなれ》森《もり》の長者屋敷にはこの数年前まで燐寸《マツチ》の軸木の工場ありたり。その小屋の戸口に夜になれば女の伺ひ寄りて人を見てげたげたと笑ふ者ありて、淋しさに堪へざるゆゑ、つひに工場を大字山口に移したり。その後また同じ山中に枕木伐出しのために小屋を掛けたる者ありしが、夕方になると人夫の者いづれへか迷ひ行き、帰りて後茫然としてあることしばしばなり。かかる人夫四、五人もありてその後も絶えず何方へか出でて行くことありき。この者どもが後に言ふを聞けば、女が来てどこへか連れ出すなり。帰りて後は二日も三日も物を覚えずといへり。 七六 長者屋敷は昔時長者の住みたりし址《あと》なりとて、そのあたりにも糠《ぬか》森《もり》といふ山あり。長者の家の糠を捨てたるがなれるなりといふ。この山中には五つ葉のうつ木《ぎ》ありて、その下に黄金を埋めてありとて、今もそのうつぎの有《あり》処《か》を求めあるく者稀々にあり。この長者は昔の金山師なりしならんか、このあたりには鉄を吹きたる滓《かす》あり。恩《おん》徳《どく》の金山もこれより山続きにて遠からず。 七七 山口の田尻長三郎といふは土淵村一番の物持なり。当主なる老人の話に、この人四十あまりの頃、おひで老人の息子亡くなりて葬式の夜、人々念仏を終はり各帰り行きし跡に、自分のみは話好きなれば少しあとになりて立ち出でしに、軒の雨落ちの石を枕にして仰臥したる男あり。よく見れば見も知らぬ人にて死してあるやうなり。月のある夜なればその光にて見るに、膝を立て口を開きてあり。この人大胆者にて足にて揺がしてみたれど少しも身じろぎせず。道を妨げてほかにせん方もなければ、つひにこれをまたぎて家に帰りたり。次の朝行きて見ればもちろんその跡方もなく、また誰もほかにこれを見たりといふ人はなかりしかど、その枕にしてありし石の形と在りどころとは昨夜の見覚えの通りなり。この人の曰く、手を掛けてみたらばよかりしに、半ば恐ろしければただ足にて触れたるのみなりしゆゑ、さらに何物のわざとも思ひつかずと。 七八 同じ人の話に、家に奉公せし山口の長蔵なる者、今も七十余の老翁にて生存す。かつて夜遊びに出でて遅くかへり来たりしに、主人の家の門は大《おほ》槌《づち》往還に向かひて立てるが、この門の前にて浜の方より来る人に逢へり。雪合羽を著たり。近づきて立ちとまるゆゑ、長蔵も怪しみてこれを見たるに、往還を隔てて向かひ側なる畠地の方へすつと反れて行きたり。かしこには垣根ありしはずなるにと思ひて、よく見れば垣根はまさしくあり。急に恐ろしくなりて家の内に飛び込み、主人にこの事を語りしが、後になりて聞けば、これと同じ時刻に新《にひ》張《はり》村の何某といふ者、浜よりの帰り途に馬より落ちて死したりとのことなり。 七九 この長蔵の父をもまた長蔵といふ。代々田尻家の奉公人にて、その妻と共に仕へてありき。若き頃夜遊びに出で、まだ宵のうちに帰り来たり、門《かど》の口より入りしに、洞《ほら》前《まへ》に立てる人影あり。懐手をして筒袖の袖口を垂れ、顔は茫としてよく見えず。妻は名をおつねといへり。おつねの所へ来たるヨバヒトではないかと思ひ、つかつかと近よりしに、裏の方へは逃げずして、かへつて右手の玄関の方へ寄るゆゑ、人をばかにするなと腹立たしくなりて、なほ進みたるに、懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ばかり明きたる所より、すつと内に入りたり。されど長蔵はなほ不思議とも思はず、その戸の隙に手を差し入れて中を探らんとせしに、中の障子は正しく閉してあり。ここに始めて恐ろしくなり、少し引き下らんとして上を見れば、今の男玄関の雲《*くも》壁《かべ》にひたと付きてわれを見下すごとく、その首は低く垂れてわが頭に触るるばかりにて、その眼の球は尺余も、抜け出でてあるやうに思はれたりといふ。この時はただ恐ろしかりしのみにて、何事の前兆にてもあらざりき。(注 雲壁はなげしの外側の壁なり) 八〇 右の話をよく呑み込むためには、田尻氏の家のさまを図にする必要あり。遠野一郷の家の建て方はいづれもこれと大同小異なり。  門はこの家のは北向きなれど、通例は東向きなり。図にて厩舎のあるあたりにあるなり。門のことを城《じやう》前《まへ》といふ。屋敷のめぐりは畠にて、囲墻を設けず。主人の寝室とウチとの間に小さく暗き室あり。これを座頭部屋といふ。昔は家に宴会あれば必ず座頭を喚びたり。これを待たせおく部屋なり。 八一 栃内の字野崎に前川万吉といふ人あり。二、三年前に三十余にて亡くなりたり。この人も死ぬる二、三年前に夜遊びに出でて帰りしに、門《かど》の口より廻り縁に沿ひてその角まで来たるとき、六月の月夜のことなり、何心なく雲壁を見ればひたとこれに付きて寝たる男あり。色の蒼ざめたる顔なりき。大いに驚きて病みたりしがこれも何の前兆にてもあらざりき。田尻氏の息子丸吉この人と懇親にてこれを聞きたり。 八二 これは田尻丸吉といふ人がみづから遭ひたることなり。少年の頃ある夜常《じやう》居《ゐ》より立ちて便所に行かんとして茶の間に入りしに、座敷との境に人立てり。幽《かす》かに茫としてはあれど、衣類の縞《しま》も眼鼻もよく見え、髪をば垂れたり。恐ろしけれど、そこへ手を延ばして探りしに、板戸にがたと突き当たり、戸のさんにも触りたり。されどわが手は見えずして、その上に影のやうに重なりて人の形あり。その顔の所へ手をやればまた手の上に顔見ゆ。常居に帰りて人々に話し、行《あん》燈《どん》を持ち行きて見たれば、すでに何物もあらざりき。この人は近代的の人にて怜悧なる人なり。また虚言をなす人にもあらず。 八三 山口の大同、大洞万之丞の家の建てざまは少しくほかの家とはかはれり。その図前の頁に出す。玄関は巽《たつみ》の方に向かへり。きはめて古き家なり。この家には出して見れば祟《たた》りありとて開かざる古文書の葛籠《つづら》一つあり。 八四 佐々木氏の祖父は七十ばかりにて三、四年前に亡くなりし人なり。この人の青年の頃といへば、嘉《か》永《えい》の頃なるべきか。海岸の地には西洋人あまた来住してありき。釜石にも山田にも西洋館あり。船越の半島の突端にも西洋人の住みしことあり。耶《ヤ》蘇《ソ》教は密々に行なはれ、遠野郷にてもこれを奉じて磔《はりつけ》になりたる者あり。浜に行きたる人の話に、異人はよく抱き合ひては嘗《な》め合ふ者なりといふことを、今でも話にする老人あり。海岸地方には合の子なかなか多かりしといふことなり。 八五 土淵村の柏崎にては両親とも正しく日本人にして白《しら》子《こ》二人ある家あり。髪も肌も眼も西洋の通りなり。今は二十六、七くらゐなるべし。家にて農業を営む。語音も土地の人とは同じからず、声細くして鋭し。 八六 土淵村の中央にて役場小学校などのある所を字本《もと》宿《じゆく》といふ。ここに豆腐屋を業とする政といふ者、今三十六、七なるべし。この人の父大病にて死なんとする頃、この村と小《こ》烏《がら》瀬《せ》川を隔てたる字下《しも》栃《とち》内《ない》に普請ありて、地固めの堂《ど》突《づき》をなす所へ、夕方に政の父ひとり来たりて人々に挨拶し、おれも堂突をなすべしとて暫時仲間に入りて仕事をなし、やや暗くなりて皆と共に帰りたり。あとにて人々あの人は大病のはずなるにと少し不思議に思ひしが、後に聞けばその日亡くなりたりとのことなり。人々悔《くや》みに行き今日のことを語りしが、その時刻はあたかも病人が息を引き取らんとする頃なりき。 八七 人の名は忘れたれど、遠野の町の豪家にて、主人大煩ひして命の境に臨みし頃、ある日ふと菩提寺に訪ひ来たれり。和尚鄭重にあしらひ茶などすすめたり。世間話をしてやがて帰らんとする様子に少々不審あれば、跡より小僧を見せにやりしに、門を出でて家の方に向かひ、町の角を廻りて見えずなれり。その道にてこの人に逢ひたる人まだほかにもあり。誰にもよく挨拶して常の体なりしが、この晩に死去してもちろんその時は外出などすべき様態にてはあらざりしなり。後に寺にては茶は飲みたりや否やと茶椀を置きし処を改めしに、畳の敷合はせへ皆こぼしてありたり。 八八 これも似たる話なり。土淵村大字土淵の常堅寺は曹洞宗にて、遠野郷十二か寺の触《ふれ》頭《がしら》なり。ある日の夕方に村人何某といふ者、本《もと》宿《じゆく》より来る路にて何某といふ老人にあへり。この老人はかねて大病をしてをる者なれば、いつの間によくなりしやと問ふに、二、三日気分もよろしければ、今日は寺へ話を聞きに行くなりとて、寺の門前にてまた言葉を掛け合ひて別れたり。常堅寺にても和尚はこの老人が訪ね来たりしゆゑ出迎へ、茶を進めしばらく話をして帰る。これも小僧に見させたるに門の外にて見えずなりしかば、驚きて和尚に語り、よく見ればまた茶は畳の間にこぼしてあり、老人はその日失せたり。 八九 山口より柏崎へ行くには愛宕山の裾《すそ》を廻るなり。田圃に続ける松林にて、柏崎の人家見ゆる辺より雑木の林となる。愛宕山の頂には小さき祠《ほこら》ありて、参詣の路は林の中にあり。登口に鳥居立ち、二、三十本の杉の古木あり。その旁《かたはら》にはまた一つのがらんとしたる堂あり。堂の前には山《*》神の字を刻みたる石塔を立つ。昔より山の神出づと言ひ伝ふる所なり。和野の何某といふ若者、柏崎に用事ありて夕方堂のあたりを通りしに、愛宕山の上より降り来たる丈高き人あり。誰ならんと思ひ林の樹木越しにその人の顔の所を目がけて歩み寄りしに、道の角にてはたと行き逢ひぬ。先方は思ひがけざりしにや大いに驚きてこちらを見たる顔は非常に赤く、眼は耀《かがや》きてかついかにも驚きたる顔なり。山の神なりと知りて後をも見ずに柏崎の村に走り付きたり。(注 遠野郷には山神塔多く立てり、その処はかつて山神に逢ひまたは山神の祟りを受けたる場所にて、神をなだむるために建てたる石なり) 九〇 松崎村に天狗森といふ山あり。その麓なる桑畠にて村の若者何某といふ者、働きてゐたりしにしきりに睡くなりたれば、しばらく畠の畔《くろ》に腰掛けて居眠りせんとせしに、きはめて大なる男の顔はまつ赤なるが出で来たれり。若者は気軽にて平生相撲などの好きなる男なれば、この見馴れぬ大男が立ちはだかりて上より見下すやうなるを面にくく思ひ、思はず立ち上がりてお前はどこから来たかと問ふに、何の答へもせざれば、一つ突き飛ばしてやらんと思ひ、力自慢のまま飛びかかり手を掛けたりと思ふや否や、かへりて自分の方が飛ばされて気を失ひたり。夕方に正気づきて見ればむろんその大男はをらず。家に帰りて後人にこの事を話したり。その秋のことなり。早池峰の腰へ村人大勢と共に馬を曳きて萩を苅りに行き、さて帰らんとする頃になりてこの男のみ姿見えず。一同驚きて尋ねたれば、深き谷の奥にて手も足も一つ一つ抜き取られて死してゐたりといふ。今より二、三十年前のことにて、この時の事をよく知れる老人今も存在せり。天狗森には天狗多くゐるといふことは昔より人の知る所なり。 九一 遠野の町に山々の事に明るき人あり。もとは南部男爵家の鷹匠なり。町の人あだ名して鳥《とり》御《ご》前《ぜん》といふ。早池峰、六角牛の木や石や、すべてその形状と在《あり》処《か》とを知れり。年とりて後茸採りにとて一人の連れと共に出でたり。この連れの男といふは水練の名人にて、藁と槌とを持ちて水の中に入り、草鞋《わらぢ》を作りて出て来るといふ評判の人なり。さて遠野の町と猿が石川を隔つる向《むけえ》山《やま》といふ山より、綾織村の続《つづき》石《いし》とて珍しき岩のある所の少し上の山に入り、両人別れ別れになり、鳥御前一人はまた少し山を登りしに、あたかも秋の空の日影、西の山の端より四、五間ばかりなる時刻なり。ふと大なる岩の陰に赭《あか》き顔の男と女とが立ちて何か話をしてゐるに出逢ひたり。彼らは鳥御前の近づくを見て、手を拡げて押し戻すやうなる手つきをなし制止したれども、それにもかまはず行きたるに、女は男の胸にすがるやうにしたり。事のさまより真の人間にてはあるまじと思ひながら、鳥御前はひやうきんな人なれば戯れてやらんとて腰なる切《きり》刃《は》を抜き、打ちかかるやうにしたれば、その色赭き男は足を挙げて蹴たるかと思ひしが、たちまちに前後を知らず。連れなる男はこれを探しまはりて谷底に気絶してあるを見付け、介抱して家に帰りたれば、鳥御前は今日の一部始終を話し、かかる事は今までにさらになきことなり。おのれはこのために死ぬかも知れず、ほかの者には誰にも言ふなと語り、三日ほどの間病みてみまかりたり。家の者あまりにその死にやうの不思議なればとて、山《やま》臥《ぶし》のケンコウ院といふに相談せしに、その答へには山の神たちの遊べる所を邪魔したるゆゑ、その祟りをうけて死したるなりと言へり。この人は伊能先生なども知合ひなりき。今より十余年前のことなり。 九二 昨年のことなり。土淵村の里の子十四、五人にて早池峰に遊びに行き、はからず夕方近くなりたれば、急ぎて山を下り麓近くなる頃、丈の高き男の下より急ぎ足に昇り来るに逢へり。色は黒く眼はきらきらとして、肩には麻かと思はるる古き浅《あさ》葱《ぎ》色《いろ》の風呂敷にて小さき包みを負ひたり。恐ろしかりしかども子供の中の一人、どこへ行くかとこちらより声を掛けたるに、小国さ行くと答ふ。この路は小国へ越ゆべき方角にはあらざれば、立ちとまり不審するほどに、行き過ぐると思ふ間もなく、早見えずなりたり。山男よと口々に言ひて皆々逃げ帰りたりといへり。 九三 これは和野の人菊池菊蔵といふ者、妻は笛吹峠のあなたなる橋野より来たる者なり。この妻親里へ行きたる間に糸蔵といふ五、六歳の男の児病気になりたれば、昼過ぎより笛吹峠を越えて妻を連れに親里へ行きたり。名に負ふ六角牛の峰続きなれば山路は樹深く、ことに遠野分より栗橋分へ下らんとするあたりは、路はウドになりて両方は岨《そば》なり。日影はこの岨に隠れてあたりやや薄暗くなりたる頃、後の方より菊蔵と呼ぶ者あるに振り返りて見れば、崖の上より下を覗くものあり。顔は赭《あか》く眼の光りかがやけること前の話のごとし。お前の子はもう死んでゐるぞといふ。この言葉を聞きて恐ろしさよりも先にはつと思ひたりしが、早その姿は見えず。急ぎ夜のうちに妻を伴ひて帰りたれば、はたして子は死してありき。四、五年前のことなり。 九四 この菊蔵、柏崎なる姉の家に用ありて行き、振舞はれたる残りの餅を懐に入れて、愛宕山の麓の林を過ぎしに、象《*ざう》坪《つぼ》の藤七といふ大酒呑みにて彼と仲よしの友に行き逢へり。そこは林の中なれど少しく芝原ある所なり。藤七はにこにことしてその芝原を指し、ここで相撲を取らぬかといふ。菊蔵これを諾し、二人草原にてしばらく遊びしが、この藤七いかにも弱く軽く自由に抱へては投げらるるゆゑ、面白きままに三番まで取りたり。藤七が曰く、今日はとてもかなはず、さあ行くべしとて別れたり。四、五間も行きて後心付きたるにかの餅見えず。相撲場に戻りて探したれどなし。始めて狐ならんかと思ひたれど、外聞を恥ぢて人にも言はざりしが、四、五日の後酒屋にて藤七に逢ひその話をせしに、おれは相撲など取るものか、その日は浜へ行きてありしものをと言ひて、いよいよ狐と相撲を取りしこと露顕したり。されど菊蔵はなほ他の人々にはつつみ隠してありしが、昨年の正月の休みに人々酒を飲み狐の話をせしとき、おれも実はとこの話を白状し、大いに笑はれたり。(注 象坪は地名にしてかつ藤七の名字なり。象坪といふ地名のこと『石神問答』の中にてこれを研究したり) 九五 松崎の菊池某といふ今年四十三、四の男、庭作りの上手にて、山に入り草花を掘りてはわが庭に移し植ゑ、形の面白き岩などは重きを厭はず家に担ひ帰るを常とせり。ある日少し気分重ければ家を出でて山に遊びしに、今までつひに見たることなき美しき大岩を見付けたり。平生の道楽なればこれを持ち帰らんと思ひ、持ち上げんとせしが非常に重し。あたかも人の立ちたる形して丈もやがて人ほどあり。されどほしさのあまりこれを負ひ、我慢して十間ばかり歩みしが、気の遠くなるくらゐ重ければ怪しみをなし、路の旁《かたはら》にこれを立て少しくもたれかかるやうにしたるに、そのまま石と共にすつと空中に昇り行く心地したり。雲より上になりたるやうに思ひしが実に明るく清き所にて、あたりにいろいろの花咲き、しかもどこともなく大勢の人声聞こえたり。されど石はなほますます昇り行きつひには昇り切りたるか、何事も覚えぬやうになりたり。その後時過ぎて心付きたる時は、やはり以前のごとく不思議の石にもたれるままにてありき。この石を家の内へ持ち込みてはいかなる事あらんも測りがたしと、恐ろしくなりて逃げ帰りぬ。この石は今も同じ所にあり。をりをりはこれを見て再びほしくなることありといへり。 九六 遠野の町に芳《よし》公《こう》馬《ば》鹿《か》とて三十五、六なる男、白痴にて一昨年まで生きてありき。この男の癖は路上にて木の切れ塵などを拾ひ、これを捻《ひね》りてつくづくと見つめまたはこれを嗅ぐことなり。人の家に行きては柱などをこすりてその手を嗅ぎ、何物にても眼の先まで取り上げ、にこにことしてをりをりこれを嗅ぐなり。この男往来をあるきながら急に立ちどまり、石などを拾ひ上げてこれをあたりの人家に打ち付け、けたたましく火事だと叫ぶことあり。かくすればその晩か次の日か物を投げ付けられたる家火を発せざることなし。同じこと幾度となくあれば、後にはその家々も注意して予防をなすといへども、つひに火事を免れたる家は一軒もなしといへり。 九七 飯《いひ》豊《で》の菊池松之丞といふ人傷寒を病み、たびたび息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、はからず空中に飛び上がり、およそ人の頭ほどの所をしだいに前下りに行き、また少し力を入るれば昇ること始めのごとし。なんとも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何ゆゑならんといぶかりつつ門を入れば紅《くれなゐ》の芥《け》子《し》の花咲き満ち、見渡す限りも知らず。いよいよ心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前も来たのかといふ。これに何か返事をしながらなほ行くに、以前失ひたる男の子をりて、トツチヤお前も来たかといふ。お前はここにゐたのかと言ひつつ近よらんとすれば、今来てはいけないといふ。この時門の辺にて騒しくわが名をよぶ者ありて、うるさきことかぎりなけれど、よんどころなければ心も重くいやいやながら引き返したりと思へば正気付きたり。親族の者寄り集ひ水など打ちそそぎてよび生かしたるなり。 九八 路の傍に山の神、田の神、塞《さへ》の神の名を彫りたる石を立つるは常のことなり。また早池峰山六角牛山の名を刻したる石は、遠野郷にもあれど、それよりも浜にことに多し。 九九 土淵村の助役北川清といふ人の家は字火《ひ》石《いし》にあり。代々の山《やま》臥《ぶし》にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大《おほ》海嘯《つなみ》に遭ひて妻と子とを失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。夏の初めの月夜に便所に起き出でしが、遠く離れたる所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近よるを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くはないのかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情なくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山陰を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道《みち》中《なか》に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後久しく煩ひたりといへり。 一〇〇 船越の漁夫何某、ある日仲間の者と共に吉《き》利《り》吉《き》里《り》より帰るとて、夜深く四十八坂のあたりを通りしに、小川のある所にて一人の女に逢ふ。見ればわが妻なり。されどもかかる夜中にひとりこの辺に来べき道理なければ、必定化物ならんと思ひ定め、やにはに魚切り庖丁を持ちて後の方より差し通したれば、悲しき声を立てて死したり。しばらくの間は正体を現はさざればさすがに心にかかり、後の事を連れの者に頼み、おのれは馳せて家に帰りしに、妻は事もなく家に待ちてあり。今恐ろしき夢を見たり。あまり帰りの遅ければ夢に途中まで見に出でたるに、山路にて何とも知れぬ者に脅かされて、命を取らるると思ひて目覚めたりといふ。さてはと合点して再び以前の場所へ引き返して見れば、山にて殺したりし女は連れの者が見てをるうちにつひに一匹の狐となりたりといへり。夢の野山を行くにこの獣の身を傭ふことありとみゆ。 一〇一 旅人豊《とよ》間《ま》根《ね》村を過ぎ、夜更け疲れたれば、知音の者の家に燈火の見ゆるを幸いに、入りて休息せんとせしに、よき時に来合はせたり、今夕死人あり、留守の者なくていかにせんかと思ひし所なり、しばらくの間頼むといひて主人は人をよびに行きたり。迷惑千万なる話なれどぜひもなく、囲炉裡の側にて煙草を吸ひてありしに、死人は老女にて奥の方に寝させたるが、ふと見れば床の上にむくむくと起き直る。胆つぶれたれど心を鎮め静かにあたりを見廻すに、流し元の水口の穴より狐のごとき物あり、面《つら》をさし入れてしきりに死人の方を見つめてゐたり。さてこそと身を潜めひそかに家の外に出で、背戸の方に廻りて見れば、まさしく狐にて首を流し元の穴に入れ後足を爪《つま》立《だ》ててゐたり。ありあはせたる棒をもてこれを打ち殺したり。 一〇二 正月十五日の晩を小正月といふ。宵のほどは子供ら福の神と称して四、五人群れを作り、袋を持ちて人の家に行き、明けの方から福の神が舞ひ込んだと唱へて餅をもらふ習慣あり。宵を過ぐればこの晩に限り人々けっして戸の外に出づることなし。小正月の夜半過ぎは山の神出でて遊ぶと言ひ伝へてあればなり。山口の字丸《まる》古《こ》立《だち》におまさといふ今三十五、六の女、まだ十二、三の年のことなり。いかなるわけにてかただ一人にて福の神に出で、処々をあるきて遅くなり、淋しき路を帰りしに、向かふの方より丈の高き男来てすれちがひたり。顔はすてきに赤く眼はかがやけり。袋を捨てて逃げ帰り大いに煩ひたりといへり。 一〇三 小正月の夜、または小正月ならずとも冬の満月の夜は、雪女が出でて遊ぶともいふ。童子をあまた引き連れて来るといへり。里の子ども冬は近辺の丘に行き、橇《そりつこ》遊《あそび》をして面白さのあまり夜になることあり。十五日の夜に限り、雪女が出るから早く帰れと戒めらるるは常のことなり。されど雪女を見たりといふ者は少なし。 一〇四 小正月の晩には行事はなはだ多し。月見といふは六つの胡桃《くるみ》の実を十二に割り一時に炉の火にくべて一時にこれを引き上げ、一列にして右より正月二月と数ふるに、満月の夜晴れなるべき月にはいつまでも赤く、曇るべき月にはすぐに黒くなり、風ある月にはフーフーと音をたてて火が振ふなり。何遍繰り返しても同じことなり。村ぢゆういづれの家にても同じ結果を得るは妙なり。翌日はこの事を語り合ひ、たとへば八月の十五夜風とあらば、その歳の稲の苅入れを急ぐなり。 一〇五 また世《よ》中《なか》見《み》といふは、同じく小正月の晩に、いろいろの米にて餅をこしらへて鏡となし、同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に伏せ、鍋をかぶせ置きて翌朝これを見るなり。餅につきたる米粒の多きものその年は豊作なりとして、早中晩の種類を択び定むるなり。 一〇六 海岸の山田にては蜃気楼年々見ゆ。常に外国の景色なりといふ。見馴れぬ都のさまにして、路上の車馬しげく人の往来眼ざましきばかりなり。年ごとに家の形などいささかも違ふことなしといへり。 一〇七 上郷村に河ぷちのうちといふ家あり。早瀬川の岸にあり。この家の若き娘、ある日河原に出でて石を拾ひてありしに、見馴れぬ男来たり、木の葉とか何とかを娘にくれたり。背高く面朱のやうなる人なり。娘はこの日より占ひの術を得たり。異人は山の神にて、山の神の子になりたるなりといへり。 一〇八 山の神の乗り移りたりとて占ひをなす人は所々にあり。附《つく》馬《も》牛《うし》村にもあり。本業は木《こ》挽《びき》なり。柏崎の孫太郎もこれなり。以前は発狂して喪心したりしにある日山に入りて山の神よりその術を得たりし後は、不思議に人の心中を読むこと驚くばかりなり。その占ひの法は世間の者とは全く異なり。何の書物をも見ず、頼みに来たる人と世間話をなし、その中にふと立ちて常《じやう》居《ゐ》の中をあちこちとあるき出すと思ふほどに、その人の顔は少しも見ずして心に浮かびたることをいふなり。当たらずといふことなし。たとへばお前のウチの板敷を取り離し、土を掘りて見よ。古き鏡または刀の折れあるべし。それを取り出さねば近きうちに死人ありとか家が焼くるとか言ふなり。帰りて掘りて見るに必ずあり。かかる例は指を屈するにたへず。 一〇九 盆の頃には雨風祭とて藁にて人よりも大なる人形を作り、道の岐《ちまた》に送り行きて立つ。紙にて顔を描き、瓜《うり》にて陰陽の形を作り添へなどす。虫祭の藁人形にはかかることはなくその形も小さし。雨風祭の折は一部落の中にて頭《とう》屋《や》を択び定め、里人集まりて酒を飲みて後、一同笛太鼓にてこれを道の辻まで送り行くなり。笛の中には桐の木にて作りたるホラなどあり。これを高く吹く。さてその折の歌は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北《*》の方さ祭る」といふ。(注 『東国輿地勝覧』によれば韓国にても〓壇を必ず城の北方に作ること見ゆ。共に玄武神の信仰より来たれるなるべし) 一一〇 ゴンゲサマといふは、神楽《かぐら》舞《ま》ひの組ごとに一つづつ備はれる木彫の像にして、獅子頭とよく似て少しく異なれり。はなはだ御利生のあるものなり。新《にひ》張《ばり》の八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村字五日市の神楽組ゴンゲサマと、かつて途中にて争ひをなせしことあり。新張のゴンゲサマ負けて片耳を失ひたりとて今もなし。毎年村々を舞ひてあるくゆゑ、これを見知らぬ者なし。ゴンゲサマの霊験はことに火伏せにあり。右の八幡の神楽組かつて附馬牛村に行きて日暮れ宿を取りかねしに、ある貧しき者の家にて快くこれを泊めて、五升桝を伏せてその上にゴンゲサマを据ゑ置き、人々は臥したりしに、夜中にがつがつと物を噛《か》む音のするに驚きて起きて見れば、軒端に火の燃え付きてありしを、桝の上なるゴンゲサマ飛び上がり飛び上がりして火を喰ひ消してありしなりと。子供の頭を病む者など、よくゴンゲサマを頼み、その病を齧《か》みてもらふことあり。 一一一 山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火《ひ》渡《わたり》、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダ《*》ンノハナといふ地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野といふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追ひやるの習ひありき。老人はいたづらに死んでしまふこともならぬゆゑに、日中は里へ下り農作して口を糊《ぬら》したり。そのために今も山口土淵辺にては朝《あした》に野らに出づるをハカダチといひ、夕方野らより帰ることをハカアガリといふといへり。(注 ダンノハナは壇の塙なるべし。すなはち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』に言へり) 一一二 ダンノハナは昔館《たて》のありし時代に囚人を斬りし場所なるべしといふ。地形は山口のも土淵飯豊のもほぼ同様にて、村境の岡の上なり。仙台にもこの地名あり。山口のダンノハナは大《おほ》洞《ほら》へ越ゆる丘の上にて館《*たて》址《あと》よりの続きなり。蓮台野はこれと山口の民居を隔てて相対す。蓮台野の四方はすべて沢なり。東はすなはちダンノハナとの間の低地、南の方を星谷といふ。ここには蝦夷屋敷といふ四角に凹みたる所多くあり。その跡きはめて明白なり。あまた石器を出す。石器・土器の出る処山口に二か所あり。他の一は小字をホウリヤウといふ。ここの土器と蓮台野の土器とは様式全然異なり。後者のは技巧いささかもなく、ホウリヤウのは模様なども巧みなり。埴《はに》輪《わ》もここより出づ。また石斧・石刀の類も出づ。蓮台野には蝦夷銭とて土にて銭の形をしたる径二寸ほどの物多く出づ。これには単純なる渦《うづ》紋《もん》などの模様あり。字ホウリヤウには丸玉・管玉も出づ。ここの石器は精巧にて石の質も一致したるに、蓮台野のは原料いろいろなり。ホウリヤウの方は何の跡といふこともなく、狭き一町歩ほどの場所なり。星谷は底の方今は田となれり。蝦夷屋敷はこの両側に連なりてありしなりといふ。このあたりに掘れば祟りありといふ場所二か所ほどあり。(注 外の村々にても二所の地形および関係これに似たりといふ) 一一三 和野にジヤウヅカ森といふ所あり。象を埋めし場所なりといへり。ここだけには地震なしとて、近辺にては地震の折はジヤウヅカ森へ逃げよと昔より言ひ伝へたり。これは確かに人を埋めたる墓なり。塚のめぐりには堀あり。塚の上には石あり。これを掘れば祟りありといふ。 一一四 山口のダンノハナは今は共同墓地なり。岡の頂上にうつ木を栽《う》ゑめぐらしその口は東方に向かひて門《もん》口めきたる所あり。その中ほどに大なる青石あり。かつて一たびその下を掘りたる者ありしが、何者をも発見せず。後再びこれを試みし者は大なる瓶あるを見たり。村の老人たち大いに叱りければ、またもとのままになしおきたり。館の主の墓なるべしといふ。ここに近き館の名はボンシヤサの館といふ。いくつかの山を掘り割りて水を引き、三重四重に堀を取り廻らせり。寺屋敷砥《と》石《いし》森《もり》などいふ地名あり。井の跡とて石垣残れり。山口孫左衛門の祖先ここに住めりといふ。『遠野古事記』に詳《つまびら》かなり。 一一五 御伽話のことを昔々といふ。ヤマハハの話最も多くあり。ヤマハハは山姥のことなるべし。その一つ二つを次に記すべし。 一一六 昔々ある所にトトとガガとあり。娘を一人持てり。娘をおきて町へ行くとて、誰が来ても戸を明けるなと戒め、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみてゐたりしに、真昼間に戸を叩きてここを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇《おど》すゆゑに、ぜひなく戸を明けたれば入り来たるはヤマハハなり。炉の横座に蹈みはだかりて火にあたり、飯をたきて食はせよといふ。その言葉に従ひ膳を支度してヤマハハに食はせ、その間に家を逃げ出したるに、ヤマハハは飯を食ひ終はりて娘を追ひ来たり。おひおひにその間近く今にも背に手の触るるばかりなりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハハにぼつかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅りおきたる柴の中に隠れたり。ヤマハハ尋ね来たりて、どこに隠れたかと柴の束をのけんとして、柴を抱へたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここをのがれてまた萱を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハハにぼつかけられてあるなり、隠してくれよと頼み、苅りおきたる萱の中に隠れたり。ヤマハハはまた尋ね来たりて、どこに隠れたかと萱の束をのけんとして、萱を抱へたるまま山より滑り落ちたり。その隙にまたここをのがれ出でて大きなる沼の岸に出でたり。これよりは行くべき方もなければ、沼の岸の大木の梢に昇りゐたり。ヤマハハはどけえ行つたとて逃がすものかとて、沼の水に娘の影の映れるを見てすぐに沼の中に飛び入りたり。この間に再びここを走り出で、一つの笹小屋のあるを見付け、中に入りて見れば若き女ゐたり。これにも同じことを告げて石の唐《から》櫃《うど》のありし中へ隠してもらひたるところへ、ヤマハハまた飛び来たり娘のありかを問へども隠して知らずと答へたれば、いんね来ぬはずはない、人くさい香がするものといふ。それは今雀を炙《あぶ》つて食つたゆゑなるべしと言へば、ヤマハハも納得してそんなら少し寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女はこれに鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハハに連れて来られたる者なれば共々にこれを殺して里へ帰らんとて、錐《きり》を紅く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハハはかくとも知らず、ただ二十日鼠が来たと言へり。それより湯を煮立てて焼錐の穴より注ぎ込みて、つひにそのヤマハハを殺し二人共に親々の家に帰りたり。昔々の話の終りはいづれもコレデドンドハレといふ語をもちて結ぶなり。 一一七 昔々これもある所にトトとガガと、娘の嫁に行く支度を買ひに町へ出で行くとて戸を鎖し、誰が来ても明けるなよ、はアと答へたれば出でたり。昼の頃ヤマハハ来たりて娘を取りて食ひ、娘の皮をかぶり娘になりてをる。夕方二人の親帰りて、おりこひめこゐたかと門の口より呼べば、あ、ゐたます、早かつたなしと答へ、二親は買ひ来たりしいろいろの支度の物を見せて娘の悦ぶ顔を見たり。次の日夜の明けたる時、家の鶏羽ばたきして、糠《ぬか》屋《や》の隅ツ子見ろぢや、けけろと鳴く。はて常に変はりたる鶏の鳴きやうかなと二親は思ひたり。それより花嫁を送り出すとてヤマハハのおりこひめこを馬に載せ、今や引き出さんとするときまた鶏鳴く。その声は、おりこひめこを載せなえでヤマハハのせた、けけろと聞こゆ。これを繰り返して歌ひしかば、二親も始めて心付き、ヤマハハを馬より引き下して殺したり。それより糠屋の隅を見に行きしに娘の骨あまたありたり。 一一八 紅《べに》皿《ざら》欠《かけ》皿《ざら》の話も遠野郷に行なはる。ただ欠皿の方はその名をヌカボといふ。ヌカボは空《うつ》穂《ぼ》のことなり。継母に悪まれたれど神の恵ありて、つひに長者の妻となるといふ話なり。エピソードにはいろいろの美しき絵様あり。折あらば詳しく書記すべし。 一一九 遠野郷の獅子踊りに古くより用ゐたる歌の曲あり。村によりて少しづつの相異あれど、自分の聞きたるは次のごとし。百年あまり以前の筆写なり。 橋ほめ 一 まゐり来て此橋を見申せや、いかなもをざは蹈みそめたやら、わだるがくかいざるもの 一 此御馬場を見申せや、杉原七里大門まで 門ほめ 一 まゐり来て此もんを見申せや、ひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白かねの門 一 門の戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい 〇 一 まゐり来てこの御本堂を見申せや、いかな大工は建てたやら 一 建てた御人は御手とから、むかしひたのたくみの立てた寺也 小島ぶし 一 小島ではひの木さわらで門立てゝ、是ぞ目出たい白金の門 一 白金の門戸びらおすひらき見申せや、あらの御せだい 一 八つ棟ぢくりにひわだぶきの、上におひたるから松 一 から松のみぎり左に涌くいぢみ、汲めども呑めどもつきひざるもの 一 あさ日さすよう日かゞやく大寺也、さくら色のちごは百人 一 天からおづるちよ硯水、まつて立たれる 馬屋ほめ 一 まゐり来てこの御台所見申せや、め釜を釜に釜は十六 一 十六の釜で御代たく時は、四十八の馬で朝草苅る 一 其馬で朝草にききやう小萱を苅りまぜて、花でかゞやく馬屋なり 一 かゞやく中のかげ駒は、せたいあがれを足がきする 〇 一 此庭に歌のぞうじはありと聞く、あしびながらも心はづかし 一 われわれはきによならひしけふあすぶ、そつ事ごめんなり 一 しやうぢ申せや限なし、一礼申して立てや友だつ 桝形ほめ 一 まゐり来てこの桝を見申せや、四方四角桝形の庭也 一 まゐり来て此宿を見申せや、人のなさげの宿と申 町ほめ 一 参り来て此お町を見申せや、竪町十五里横七里、△△出羽にまよおな友たつ けんだんほめ 一 まゐり来てこのけんだん様を見申せや、御町間中にはたを立前 一 まいは立町油町 一 けんだん殿は二かい座敷に昼寝すて、銭を枕に金の手遊 一 参り来てこの御札見申せば、おすがいろぢきあるまじき札 一 高き処は城と申し、ひくき処は城下と申す也 橋ほめ 一 まゐり来てこの橋を見申せば、こ金の辻に白金のはし 上ほめ 一 まゐり来てこの御堂見申せや、四方四面くさび一本 一 扇とりす《*》ゞ取り、上さ参らばりそうある物 (注 すゞは数珠、りそうは利生か) 家ほめ 一 こりばすらに小金のたる木に、水のせ懸るぐしになみたち 浪 合 一 此庭に歌の上ずはありと聞く、歌へながらも心はづかし 一 お《*》んげんべりこおらいべり、山と花ござ是の御庭へさららすかれ (注 雲繝縁・高麗縁なり) 一 まぎゑの台に玉のさかすきよりすゑて、是の御庭へ直し置く 一 十七はちやうすひやけ御手にもぢをすやく廻や御庭かゝやく 一 この御酒一つ引受たもるなら、命長くじめうさかよる 一 さかなには鯛もすゞきもござれ共、おどにきこいしからのかるうめ 一 正ぢ申や限なし、一礼申て立や友たつ、京 柱懸り 一 仲だぢ入れよや仲入れろ、仲たづなけれや庭はすんげない〓 一 す《*》かの子は生れておりれや山めぐる、我等も廻る庭めぐる〓 (注 すかの子は鹿の子なり。遠野の獅子踊りの面は鹿のやうなり) 一 これの御庭におい柱の立つときは、ち《*》のみがき若くなるもの〓 (注 ちのみがきは鹿の角磨きなるべし) 一 松島の松をそだてゝ見どすれば、松にからまるち《*》たのえせもの〓 (注 ちたは蔦) 一 松島の松にからまるちたの葉も、えんが無れやぶらりふぐれる〓 一 京で九貫のから絵のび《*》よぼ、三よへにさらりたてまはす (注 びよぼは屏風なり、三よへは三四重か、此歌最もおもしろし) めず〓ぐり(注 め《*》ず〓ぐりは鹿の妻えらびなるべし) 一 仲たぢ入れろや仲入れろ、仲立なけれや庭すんげなえ〓 一 鹿の子は生まれおりれや山廻る、我らもめぐる庭を廻るな〓 一 女鹿たづねていかんとし《*》て白山の御山かすみかゝる〓 (注 して字は〆てとあり不明) 一 う《*》るすやな風はかすみを吹き払て、今こそ女鹿あけてたちねる〓 (注 うるすやなは嬉しやななり) 一 何と女鹿はかくれてもひと村すゝきあけてたつねる〓 一 笹のこのはの女鹿子は、何とかくてもおひき出さる 一 女鹿大鹿ふりを見ろ、鹿の心みやこなるもの〓 一 奥のみ山の大鹿はことすはじめておどりでき候〓 一 女鹿とらてあうがれて心ぢくすくをろ鹿かな〓 一 松島の松をそだてゝ見とすれば松にからまるちたのえせもの〓 一 松島の松にからまるちたの葉も、えんがなけれやぞろりふぐれる〓 一 沖のと中の浜す鳥、ゆらりこがれるそろりたつ物〓 なげくさ 一 なげくさを如何御人は御出あつた、出た御人は心ありがたい 一 この代を如何な大工は御指しあた、四つ角て宝遊ばし〓 一 この御酒を如何な御酒だと思し召す、おとに聞いしが〓菊の酒〓 一 此銭を如何な銭たと思し召す、伊勢お八まち銭熊野参の遣ひあまりか〓 一 此紙を如何な紙と思し召す、は《*》りまだんぜかかしま紙か、おりめにそたひ遊はし (注 播磨檀紙にや) 一 あふぎのお所い《*》ぢくなり、あふぎの御所三内の宮、内てすめるはかなめなり〓、おりめにそたかさなる (注 いぢくなりはいづこなるなり三内の字不明仮にかくよめり) 遠野物語拾遺 題 目 下の数字は話の番号である 神の始 一、三、一三、一五、二七、二八、三二、三八、三九、七七、一八九 地名の由来 二‐七 里の神 四九、五〇、六〇、六九、七一‐七三  ゴンゲサマ 二〇、五七‐五九、七〇 子供神 五一‐五六 手伝い神 六一‐六六、六八、六九 家の神 六一、六二、六六  オクナイサマ 七四  オシラサマ 七五‐八五  ザシキワラシ 八七‐九一 山の神 九五、九六、一二一、一二六 神 女 九七 天 狗 九八、九九 山 男 一〇〇‐一〇八、一一〇、一二〇 山 女 一〇九‐一一二、一一六、一二〇 仙 人 五 山の霊異 一一三‐一二三、一六四‐一六六 霊 地 一六、一二四、一二五 石 八‐一六、二三 淵と沼と 二一‐三七、四〇‐四二、一七六‐一七八  ハヤリ神 四三‐四八 館の址 一三〇‐一三四 昔の人 一〇九、一一〇、一二七‐一二九、一四〇、二二二‐二三〇、二四六、二五二 家の盛衰 九三、一三二‐一三九 家の霊 九二、九四 宝 器 九八、九九、一四一‐一四四 法 力 四〇、六七 前《しる》 兆《なし》 九三、一三四、一四五‐一四七、二六六 夢 見 一四九、一五〇 魂の行衛 一五一‐一六一 まぼろし 一六二、一六三、一六七‐一七三 河 童 一七八 蛇 三〇‐三二、三四、一七九‐一八二 猫 一七四‐一七六 牛 一七七 蜘 蛛 一八三‐一八五 狸 一八六 貉 一八七 狐 一八八‐二〇八 狼 七一、七三、二一三、二一四 熊 二〇九‐二一二 猪 二一五 犬 二一六、二一七 鳥 二一八 いろいろな植物 一七、一八、二〇、二一 源平の頃 七、一一、一八、一九 近い昔 一八八、二三一‐二三六 一生のこと 八六、二一九‐二二一、二三七‐二六九、二七二 年中行事 二七〇、二七一、二七三‐二九九 一 昔三人の美しい姉妹があった。橋野の古《ふる》里《さと》という処に住んでいた。後にその一番の姉は笛吹峠へ、二番目は和山峠へ、末の妹は太《おお》田《た》林《べえし》へ、それぞれ飛んで行って、そこの観音様になったそうな。 二 昔青笹村に一人の少年があって継子であった。馬放しにその子をやって、四方から火をつけて焼き殺してしまった。その子は常々笛を愛していたが、この火の中で笛を吹きつつ死んだ処が、今の笛吹峠であるという。 三 昔青笹には七つの池があった。その一つの池の中には、みこ石という岩があった。六《ろつ》角《こ》牛《うし》山のてんにんこう(天人児)が遊びに来て、衣裳を脱いでこのみこ石に掛けておいて、池にはいって水を浴びていた。惣助という男が魚を釣りに来て、珍しい衣《き》物《もの》の掛けてあるのを見て、そっと盗んでハキゴ(籠)に入れて持って帰った。天人児は衣物がないために天に飛んで帰ることができず、朴《ほお》の葉を採って裸身を蔽うて、衣物を尋ねて里の方へ下りて来た。池の近くの一軒屋に寄って、いま釣りをしていた男の家はどこかと聞くと、これから少し行った処に家が三軒ある。そのまん中の家に住む惣助というのがそれだという。天人児は惣助の家に来て、先ほどお前は衣物を持ってこなかったか、もし持ってきてあるならば、どうか返してくれと言って頼んだ。いかにもあのみこ石の上に、見たこともない衣裳が掛かっていたので持って帰ったが、あまり珍しいので殿様に上げてきたところだと、惣助はうそをついた。そうすると天人児は大いに歎いて、それでは天にも帰って行くことができぬ。どうしたらよいかとしばらく泣いていたが、ようやくのことで顔を上げて言うには、それならば私に田を三人役《やく》(三反歩)ばかり貸してください。それへ蓮《れん》華《げ》の花を植えて、糸を取って機《はた》を織って、もう一度衣裳を作るからと言った。そうして惣助に頼んでみこ石の池の辺に、笹小屋を建ててもらって、そこにはいって住んだ。青笹村という名はその笹小屋を掛けたのが起こりであるそうな。三人役の田に植えた蓮華の花はやがて一面に咲いた。天人児はそれから糸を引いて、毎日毎夜その笹小屋の中で、機を織りつつ佳《よ》い声で歌を歌った。機を織るところをけっして覗《のぞ》いて見てはならぬと、惣助はかたく言われていたのであったが、あんまり麗《うるわ》しい歌の声なので、忍びかねて覗いて見た。そうすると梭《ひ》の音ばかりは聞こえて、女の姿は少しも見えなかった。それはたぶん天人児が六角牛の山で機を織っていたのが、ここで織るように聞こえたのであろうと思われた。惣助は匿していた天人児の衣裳を、ほんとうに殿様に献上してしまった。天人児もほどなく曼《まん》陀《だ》羅《ら》という機を織り上げたが、それも惣助に頼んで殿様へ上げることにした。殿様はたいそうこれを珍しがって、一度この機を織った女を見たい。そうして何でも望みがあるならば、申し出るようにと惣助に伝えさせた。天人児はこれを聞いて、べつに何という願いはない。ただ殿様の処に御奉公がしたいと答えた。それで早速に連れて出ることにすると、またこのような美しい女はないのだから、殿様は喜んでこれを御殿においた。そうして大切にしておいたけれども、天人児は物を食べず仕事もせず、毎日ふさいでばかりいた。そのうちに夏になって、御殿には土用乾しがあった。惣助の献上した天人児の元の衣裳も、取り出して虫干しをしてあった。それを隙を見て天人児は手早く身につけた。そうしてすぐに六角牛山の方へ飛んで行ってしまった。殿様の歎きは永く続いた。けれども何の甲斐もないので、曼陀羅は後に今の綾織村の光明寺に納めた。綾織という村の名もこれから始まった。七つの沼も今はなくなって、そこにはただ、沼の御《ご》前《ぜん》という神がまつられている。 四 綾織の村の方でも、昔この土地に天人が天《あま》降《くだ》って、綾を織ったという言い伝えが別にあり、光明寺にはその綾の切れが残っているという。あるいはまた光明寺でない某寺には、天人の織ったという曼陀羅を持ち伝えているという話もある。 五 遠野から釜石へ越える仙人峠は、昔その下の千人沢の金《かな》山《やま》が崩れて、千人の金掘りが一時に死んでから、峠の名が起こったという口碑があり、上《かみ》郷《ごう》村の某寺は近江弥《や》右衛《え》門《もん》という人がその追善のために建立したとも言い伝えている。また一説には、この山には一人の仙人が棲《す》んでいた。菊の花を愛したと言って、今でもこんな山の中に、残って咲いているのを見ることがある。それを見つけて食べた者は、長生きをするということである。あるいはその仙人が今でも生きているという説もある。前年釜石鉱山の花見の連中が、峠の頂上にある仙人神社の前で、記念の写真をとった時にも、後で見ると人の数が一人だけ多い。それは仙人がその写真に加わって、映ったのだということであった。 六 昔橋野の太《おお》田《た》林《べえし》に、母と子と二人暮らしの一家があった。母は六十を過ぎてもう働くことができず、息子一人の手で親を養っていたが、その子は大阪の戦に駆り出されて出て往った。村の人たちは婆様が一人になって、さだめて困ることだと思って時折行ってみるが、いつまで経《た》っても食物が無くなった様子が見えぬ。不思議に思ってある者がそっと覗いて見ると、その婆様は土を食っていたという。それゆえに今でもその土地を婆喰地と書いて、バクチというようになったのだそうな。 七 小《お》友《とも》村の荒《あら》谷《や》は元は会《あい》矢《や》といったのだそうな。昔八幡太郎が西種山の物見から、安倍貞任は東種山から、互いに矢を射合ったところが、両方の矢がこの荒谷の空で行き会うて共に落ちた。それゆえにここを会矢というようになったという。その矢の落ちた処と言い伝えて、同処の高稲荷山には割石という大岩がある。双方の矢が落ちて来て、この大きな岩が二つに割れたといっている。 八 土淵村のうちには離《はなれ》森《もり》といって、同じ形の小山が二つ並んでいる処がある。昔ある狩人がこの辺に行って夜泊っていると、地の中からこの二つの山が生まれて出て、互いにめきめきと成長して、丈《たけ》競《くら》べをしておったそうである。それがそのうちに夜が明けたので止んだという。村の菊池長四郎という人の話である。 九 同じ土淵村山口高《たか》室《むろ》には、二つ石という山があって、頂上に大きな岩が二つ並んで立っている。岩と岩との間はおおよそ一尋《ひろ》ほど隔たっているが、この間を男と女が一緒に通ってはいけないといっている。また真夜中になると、この二つの岩は寄り合っているともいって、それで土地の人は二つ石山の夫婦岩と呼ぶのである。 一〇 綾織村字山口の羽《は》黒《ぐろ》様《さま》では今あるとがり岩という大岩と、矢《や》立《たて》松という松の木とが、おがり(成長)競べをしたという伝説がある。岩の方は頭が少し欠けているが、これは天《てん》狗《ぐ》が石の分際として、樹木と丈《たけ》競《くら》べをするなどはけしからぬことだと言って、下駄で蹴欠いた跡だといっている。一説には石はおがり負けてくやしがって、ごせを焼いて(怒って)自分で二つに裂けたともいうそうな。松の名を矢立松というわけは、昔田村将軍がこの樹に矢を射立てたからだという話だが、先年山師の手にかかって伐り倒された時に、八十本ばかりの鉄矢の根がその幹から出た。今でもその鏃《やじり》は光明寺に保存せられている。 一一 綾織村山口の続《つづき》石《いし》は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居のように人が通り抜けて行くことができる。武蔵坊弁慶の作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をするために、いったんこの笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜じゅう泣き明かした。弁慶はそんなら他の石を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。それゆえに続石の笠石には、弁慶の足形の窪みがある。泣石という名もその時からついた。今でも涙のように雫《しずく》を垂らして、続石の脇に立っている。 一二 同じ村の字砂《いさ》子《ご》沢《ざわ》では、姥《うば》石《いし》という石が石神山の裾野に立っている。昔一人の巫《み》子《こ》が、この山たとえ女人禁制なればとて、われは神をさがす者だからさしつかえがないといって、牛に乗って石神山に登って行った。するとにわかに大雨風が起こり、それに吹き飛ばされて落ちてこの石になった。その傍には牛石という石もあるのである。 一三 宮守村字中《なか》斎《さい》に行く路の途中に、石神様があってこれは乳の神である。昔ある一人の尼がどういうわけでかこの石になったのだと言い伝えている。 一四 綾織村の駒形神社の境内には、竜石という高さ四尺ばかりの、褐色の自然石がある。昔村の人がこの石を曳《ひ》いてここまで来るとどうしても動かぬので、そのままにしておくのだという。何のために曳いて来たかは伝わっていない。竜石という名前も元はなかったが、ある時旅の物知りが来てこの石の話を聞き、ぜひ見たいというから案内をして見せると、これは竜石という石である。それここが眼でこれは鼻、これが口だ耳だ首だ胴体だといって、とうとう竜の形にしてしまったので、村の人ももっとものことだと思ったという。 一五 この駒形神社は、俗に御《お》駒《こま》様《さま》といって石神である。男の物の形を奉納する。その社の由来は昔ちょうど五月の田植え時に、村の若い女たちが田植えをしているところへ、一人の旅人が不思議な目鼻もないのっぺりとした子供に、赤い頭巾をかぶせたのを背中におぶって通りかかった。そうして今の御駒様のある処に来て休んだ。あるいはその地で死んだともいう。それがもとでここにこの社が建つことになったそうな。 一六 土淵村から小《お》国《ぐに》へ越える立丸峠の頂上にも、昔は石神があったという。今は陽物の形を大木に彫刻してある。この峠については金精神の由来を説く昔話があるが、それとよく似た言い伝えをもつ石神は、まだ他にも何か所かあるようである。土淵村字栃内の和野という処の石神は、一本の石棒で畠の中に立ち、女の腰の痛みを治すといっていた。畠の持主がこれを邪魔にして、その石棒を抜いて他へ棄てようと思って下の土を掘って見たら、おびただしい人骨が出た。それで祟りを畏《おそ》れて今でもそのままにしてある。故伊能先生の話に、石棒の立っている下を掘って、多くの人骨が出た例は小《お》友《とも》村の蝦夷塚にもあったという。綾織村でもそういう話が二か所まであった。 一七 小友村字鷹巣の山奥では、沢の蕗《ふき》の葉にはことごとく小さな穴がある。昔どこかの御姫様が、逃げて来てこの山に隠れたのを、懸想する男が家来を連れてその跡を尋ね、はるばるこの沢まで来たけれども、どうしても見つからなかった。そこで落胆して家来の者に向かい、いかにしてもわが思いを遂げることができぬのだろうかと言うと、まことにやむをえぬことだから、そこの蕗の葉で間に合わせたまえと答えた。それゆえに今でもこの沢の蕗の葉には、この通り小さな穴が明いているのだという。 一八 栗橋村字早《わせ》栃《とち》という処には、実を結ばぬ小柿の木がある。昔源平の戦があって、多くの人がここで討死をした。その屍を埋めて塚の上に栽えたのがこの柿の木であったという。それでその人々の霊によって、花は咲いても実がならぬのだと伝えられる。 一九 昔この早栃で源平の戦のあった時、なかなか勝負がつかずそのうちに食事の時になって、両軍とも飯を煮て食った。源氏の方では早く煮えるように、鍋を低く下げて煮たけれどもよく煮えなかった。平家方では鍋を高くかけて、下に多くの薪を燃したために、たちまちに飯がよくできた。それで今でもこの土地には、平家の高鍋という諺があって、物を煮るには高鍋がよいと言っている。 二〇 昔栗《くり》林《べえし》村の太田に大きな杉の木があった。その名を一の権現といって、五里も離れた笛吹峠の上から、見えるほどの大木であった。ある年わけがあってその木を伐り倒すことになったが、朝から晩まで挽《ひ》いても鋸屑が一夜のうちに元通りにくっついて、幾日かかっても挽き切ることができなかった。ところがある夜の夢に、せの木という樹がやって来て、あの切り屑を毎晩焼き棄ててしまったら、すぐに伐り倒せると教えてくれた。次の日からその通りにすると、はたして大杉は倒されてしまった。しかし多くの樹木は仲間の権現が、せの木のために殺されたといって、それからはせの木と付合いをしないことにした。 二一 金沢村の字長《なが》谷《や》は、土淵村字栃《とち》内《ない》の琴畑と、背中合わせになった部落である。その長谷に曲《まがり》栃《とち》という家があり、その家の後に滝明神という祠があって、その境内に昔大きな栃の木があった。ある時大槌浜の人たちが船にしようと思って、この木を所望して伐りにかかったが、いくら伐っても翌日行って見ると、切り屑が元木についていてどうしても伐り倒すことはできなかった。皆が困りきっているところへ、ちょうど来合わせた旅の乞《こ》食《じき》があった。そういうことはよく古木にはあるものだが、それは焼き伐りにすれば難なく伐り倒すことができるものだと教えてくれた。それでようやくのことでこの栃の木を伐り倒して、金沢川に流し下すと、流れて川下の壷桐の淵まで行って倒《さか》さに落ち沈んで再び浮かび揚がらず、その淵のぬしになってしまったそうな。この曲栃の家には美しい一人の娘があった。いつも夕方になると家の後の大栃の樹の下に行き、幹にもたれて居り居りしたものであったが、その木が大槌の人に買われてゆくということを聞いてから、斫《き》らせたくないといって毎日毎夜泣いていた。それがとうとう金沢川へ、伐って流して下すのを見ると、気狂いのようになって泣きながらその木の後についてゆき、いきなり壷桐の淵に飛び込んで沈んでいる木に抱きついて死んでしまった。そうして娘の亡骸はついに浮かび出でなかった。天気のよい日には今でも水の底に、羽の生えたような大木の姿が見えるということである。 二二 附馬牛村東禅寺の常福院に、昔無尽和尚の時に用いられたという大釜がある。無尽は碩《せき》徳《とく》の師家であって、ふだん二百余人の雲水が随従していたので、いつもこの釜で粥《かゆ》などを煮ていたものであるという。初めには夫婦釜といって二つの釜があった。東禅寺が盛岡の城下へ移された時、この釜は持って行かれるのを厭がって、夜々異様の唸《うな》り声を立てて、本堂をごろごろと転げまわった。いよいよ担ぎ出そうとすると、幾人がかりでも動かぬほど重くなった。それでも雌釜の方だけはとうとう担ぎ挙げられて、同じ村の大萩という処まで行ったが、後に残った雄釜を恋しがって鳴り出し、人夫をよろよろと後戻りをさせるので、気味が悪くなってしばらく地上に置くと、そのまま唸りながら前の淵へはいってしまった。それでその一つだけは今でもこの淵の底に沈んでいるのだそうな。 二三 松崎村の松崎沼には、竜宮から来た鐘が沈んでいるという。遠野の物見山の孫四郎臼は、この沼から上《あが》ったという話もあり、沼の底に爺石婆石の二つの石が並んで立っていてそれから前《さき》へはどうしても行けず、もし行けば底なしになって帰って来ることができぬともいう。 二四 鐘や釜の沈んでいるという淵沼の話は多い。土淵村字角《かく》城《じよう》の角《かく》城《じよう》館《だて》にあった鐘は、今はその前の鐘撞き堂の淵に沈んでいる。それで今でも時々は川の底で鳴ることがあるそうな。栗橋村初《はじ》神《かみ》の明神の淵には大釜が沈んでいる。御湯立の時に用いた釜であった。現に水の下に今でもよく見えている。その釜の中の水が濁ると、何か悪い事があるという。土淵村小《こ》烏《がら》瀬《せ》川の久《きゆう》手《て》橋の下の淵には、金《こん》色《じき》の仏像が沈んでいて、朝日の押《おつ》開《びら》きの時などに水の底に光っているのを見ることがある。この仏像は火《ひ》石《いし》の北川家が神道になる時に、家にあった仏像をここへ棄てたのである。 二五 松崎村字登《のぼ》戸《と》の淵の近所に、里《さと》屋《や》という家があった。昔その家のすぐ前を猿《さる》が石《いし》川が流れていて、増水の時などはいつも難儀をするので、主人はこれを苦にして一日川のふちに行き、川のぬし川のぬし、もしもこの川を別の方へ廻して流してくれたら、おれのたった一人の娘をやってもよいがと言った。次の朝起きてみると、もう一夜のうちに川は家の前を去って遠くの方を流れていた。そこで主人はひどく心を痛めて、いろいろと考えたあげく、その日召使の女が何心もなく淵に行って洗濯をしているところを、不意に後から川に突き落とした。その女はいったん水の中に沈んだが再び川の真中に立ち上がって形相を変えて叫んだ。男に恨みがある。お前の家にはけっして男を立てぬからそう思えと言った。それから後は今でもこの家には、男が生まれても二十にならぬ前にきっと死ぬという。これはその家の者の直話を聴いたという伊藤君の話である。 二六 これも松崎村の橋場あたりであったかに、徳弥という馬喰《ばくろう》渡《と》世《せい》の者が住んでいた。ある年洪水があって川の水が登《のぼ》戸《と》の家まで突きかけて来るので、徳弥は外へ出て、川の主、川の主、娘をやるから水を脇の方へ退《の》けさせてくれと言った。そうすると水はすぐに別の方向に廻ってしまった。こうは言ったものの愛娘を殺したくはないので苦労していると、そこへちょうど母と子と二人づれの乞食が来た。娘の年をきくと十八で、自分の娘と同じであった。事情を打ち明けて身代わりになってくれぬかと頼むと、乞食親子はその頼みを承知した。その夜は村の人が多勢集まって来て、親子のために大《おお》振《ぶる》舞《まい》をして、翌日はいよいよ人々に送られて、前の薬《や》研《げん》淵という淵に入った。母親が先にはいって、水の中から娘の手を取って引いた。娘はなかなか沈まなかったが、しまいには沈んでいって見えなくなった。その娘のたたりで後々までも、この徳弥の家では女の子は十八までしか育たなかったそうである。 二七 昔、盲の夫婦が丹蔵という小さな子を連れて、栗橋村の早《わせ》栃《どち》まで来た時に、丹蔵は誤って川に落ちて死んだ。そうとは知らずに父母の盲人は、しきりに丹蔵や丹蔵やと呼びまわったが、少しも返事がないので、はじめてわが子の川にはいったことを知り、あああの宝をなくしては俺たちは生きている甲斐がない。ここで一緒に死ぬべえといって、夫婦も橋から身を投げてしまった。村の人たちはこれを憐れに思って、祠を建てて祀り、祠の名を盲《めくら》神《がみ》といった。今でも目の悪い者には御利益があるといって、祠の辺の沢の水を掬《く》んで、眼を洗う者が少なくない。 二八 松崎村の字矢崎に、母也堂(ぼなりどう)という小さな祠《ほこら》がある。昔この地に綾織村字宮ノ目から来ていた巫女があった。一人娘に婿を取ったが気に入らず、さりとて夫婦仲はよいので、ひそかに何とかしたいものだと思って機会を待っていた。その頃猿が石川から引いていた用水の取入れ口が、毎年三、四間がほど必ず崩れるので、村の人は困り抜いていろいろ評定したが分別もなく、結局物知りの巫女に伺いを立てると、明後日の夜明け頃に、白い衣物を着て白い馬に乗って通る者があるべから、その人をつかまえて堰口に沈め、堰の主になってもらうより他にはしようもないと教えてくれた。そこで村じゅうの男女が総出で要所要所に番をして、その白衣白馬の者の来るのを待っていた。一方巫女の方では気に入らぬ婿をなき者にするはこの時だと思って、その朝早く婿に白い衣物をきせ白い馬に乗せて、隣村の附《つく》馬《も》牛《うし》へ使いに出した。それがちょうど託宣の時刻にここを通ったので、一同がこの白衣の婿をつかまえて、堰の主になってくれと頼んだ。神の御告げならばと婿は快く承知したが、昔から人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》は男《お》蝶《ちよう》女《め》蝶《ちよう》の揃うべきものであるから、私の妻も一緒に沈もうと言って、そこに来合わせている妻を呼ぶと、妻もそれでは私も共にと夫と同じ白装束になり、二人でその白い馬に乗って、川に駆け込んで水の底に沈んでしまった。そうするとにわかに空が曇り雷が鳴り轟《とどろ》き、大雨が三日三夜降り続いた。四日目にようやく川の出水が引いてから行ってみると、淵が瀬に変わって堰口に大きな岩が現われていた。その岩を足場にして新たに堰を築き上げたので、もうそれからは幾百年でも安全となった。それで人柱の夫婦と馬とを、新堰のほとりに堰《せき》神《がみ》様《さま》と崇《あが》めて、今でも毎年の祭りを営んでいる。母の巫女はせっかくの計らいがくいちがって、かわいい娘までも殺してしまうことになったので、自分も悲しんで同じ処に入水して死んだ。母《ぼ》也《なり》明神というのはすなわちこの母巫女の霊を祀った祠であるという。 二九 鱒《ます》沢《ざわ》村のお鍋が淵というのも、やはり同じ猿が石川の流れにある淵である。昔阿《あ》曾《そ》沼《ぬま》家の時代にこの村の領主の妾が、主人の戦死を聞いて幼な子を抱えて、入水して死んだ処と言い伝えている。淵の中に大きな白い石があるが、洪水の前などにはその岩の上に、白い衣裳の婦人が現われて、髪を梳《す》いているのを見ることがあった。今から二十五年程前の大水の際にも、これを見た者が二、三人もあった。 三〇 小《お》友《とも》村字上《かみ》鮎《あゆ》貝《かい》に上鮎貝という家がある。この家全盛の頃の事という。家におせんという下女がいた。おせんは毎日毎日後の山に行っていたが、そのうちに帰って来なくなった。この女にはまだ乳を飲む児があって、母を慕うて泣くので、山の麓に連れて行って置くと、おりおり出ては乳を飲ませた。それが何日かを過ぎて後は、子供を連れて行っても出なくなった。そうして遠くの方から、おれは蛇体になったから、いくら自分の生んだ児でも、人間を見ると食いたくなる。もはや二度とここへは連れて来るなと言った。そうして乳飲み児ももう行きたがらなくなった。それから二十日ばかりすると、大雨風があって洪水が出た。上鮎貝の家は本屋と小屋との間が川になってしまった。その時おせんはその出水に乗って、蛇体となって小友川に流れ出て氷《すが》口《くち》の淵で元の女の姿になって見せたが、たちまちまた水の底に沈んでしまったそうである。それからその淵をおせんが淵といい、おせんのはいった山をば蛇《じや》洞《どう》という。上鮎貝の家の今の主人を浅倉源次郎という。蛇洞には今なお小沼が残っているくらいだから、そう古い時代の話ではなかろうとは、同じ村の松田新五郎氏の談である。 三一 前にいう松崎沼の傍には大きな石があった。その石の上へ時々女が現われ、また沼の中では機を織る梭《ひ》の音がしたという話であるが、今はどうか知らぬ。元禄頃のことらしくいうが、時の殿様に松川姫という美しい姫君があった。年頃になってから軽い咳《せき》の出る病気で、とかくふさいでばかりいられたが、ある時突然とこの沼を見に行きたいと言われる。家来や侍女がいくら止めても聞き入れずに、駕《か》籠《ご》に乗ってこの沼の岸に来て、笑みを含みつつ立って見ておられたが、いきなり水の中に沈んでしまった。そうして駕籠の中には蛇《じや》の鱗《うろこ》を残して行ったとも物語られる。ただし同じ松川姫の入水したという沼は他にも二、三か所もあるようである。 三二 橋野の中村という処にも昔大きな沼があった。その沼に大蛇がいて、村の人を取って食ってならなかった。村ではそれをどうともすることができないでいると、田村麿将軍は里人を憐れに思って、来て退《たい》治《じ》をしてくれた。後の祟《たた》りを恐れてその屍を里人たちは祠を建てて祀った。それが今の熊野神社である。社の前の古杉の木に、その大蛇の頭の形を木の面に彫って懸けておく習わしがあった。社の前の川を太刀洗川というのは、田村麿が大蛇を斬った太刀を、ここに来て洗ったからである。 三三 橋野の沢の不動の祭りは、旧暦六月二十八日を中にして、年によって二日祭と三日祭の、なかなか盛んなる祭りであった。この日には昔から、たとえ三粒でも必ず雨が降るといっていた。そのわけは昔この社の祭りの前の日に、海から橋野川を溯って、一尾の鮫《さめ》が参詣に来て不動が滝の滝壷にはいったところが、祭日にはあまり天気がよくて川水が乾いたために、水不足して海に帰れなくなり、わざわざ天から雨を降らせてもらって、水かさを増させて帰っていった。その由来があるので、今なおいつの年の祭りにも、必ず降ることになっているといい、この日には村人は畏れつつしんで、水浴はもちろん、川の水さえ汲まぬ習慣がある。昔この禁を犯して水浴をした者があったところ、それまで連日の晴天であったのが、にわかに大雨となり、大洪水がして田畑はいうに及ばず人家までも流された者が多かった。わけても禁を破った者は、家を流され、人も皆溺《おぼ》れて死んだと伝えられている。 三四 遠野郷の内ではないが、閉伊川の流域に腹帯ノ淵という淵がある。昔、この淵の近所のある家で一時に三人もの急病人ができた。するとどこからか一人の老婆が来て、この家には病人があるが、それは二、三日前に庭《にわ》前《まえ》で小蛇を殺したゆえだと言った。家人も思い当たることがあるので、詳しく訳をきくと、実はその小蛇は、淵の主がこの家の三番目娘を嫁に欲しくて遣わした使者であるから、その娘はどうしても水の物に取られると言う。娘はこれを聞くと驚いて病気になったが、不思議なことに、家族の者はそれと同時に三人とも病気が癒った。娘の方は約束事であったと見えて、医者の薬も効き目がなく、とうとう死んでしまった。家の人達は、どうせ淵の主のところへ嫁に行くものならばと言って、夜のうちに娘の死骸をひそかに淵の傍に埋め、偽の棺で葬式を済ました。そうして一日置いて行ってみると、もう娘の屍はそこに見えなかった。その事があってからは、この娘の死んだ日には、たとえ三粒でも雨が降ると伝えられ、村の者も遠慮して、この日は子供にも水浴びなどをさせぬという。なお、この娘が嫁に行ったのは、腹帯ノ淵の三代目の主のところで、二代目の主には、甲子村のコガヨとかいう家の娘が嫁いだのだそうな。 三五 遠野の町の愛宕山の下に、卯《う》子《ね》酉《どり》様の祠がある。その傍の小池には片葉の蘆を生ずる。昔はここが大きな淵であって、その淵の主に願をかけると、不思議に男女の縁が結ばれた。また信心の者には、時々淵の主が姿を見せたともいっている。 三六 上郷村字細越のあたりと思うが、トンノミという森の中に古池がある。故伊能先生は、鳥海と宛てるのだと言って、よくこの池の話をせられた。ここも昔から人の行くことを禁ぜられた場所で、ことに池の傍に行ってはならなかった。これを信ぜぬ者が森の中にはいって行ったところが、葦毛の駒にまたがり衣冠をつけた貴人が奥から現われて、その男はたちまち森の外に投げ出された。気がついて見れば、ずっと離れた田の中にうつぶせになっていたという。もう今ではそんなこともなくなったようである。 三七 綾織から小友に越える小友峠には祠が祀ってあるが、このあたりの沢にはまれに人目に見える沼があるという。その沼には、海川に棲《す》む魚の種類はすべていると伝えられている。もしこの沼を見た者があれば、それがもとになって病んで死ぬそうである。 三八 昔橋野川を、神が石の船に乗って下って来た。そうして早《わせ》栃《どち》まで来て、ああここが気に入ったと言って、川の岸の丘の岩穴に入られた。そこを土地の人は隠《かくれ》里《ざと》といって、祠を建ててその神を祀った。石船は二つ、今でも残っている。腰など掛けると祟りがあるということで、村ではかたく戒めている。 三九 昔この早栃に、おべんという女があった。家のあたりの沢川で大根を洗っていると、水底にぴかぴか光る物が沈んでいた。拾い上げて見ると、それは金であった。それではこの川のママを登って行けば必ず金山があるであろうと思って、だんだんと水上の方に尋ねて行くと、はたして六《む》黒《くら》見《み》山という処に、思った通りの金山があった。ところが悪者があってその話を聞き、金山を自分一人の物としようと企らんで、このおべんを殺してしまった。後に村の人がこの女の徳をたたえて、これを弁天として祀ることになった。今の弁天山がすなわちそれである。男がこの山に登れば必ず雨が降るという。 四〇 昔無尽和尚が東禅寺の伽《が》藍《らん》を建立しようとした時、境内に清い泉を欲しいと思い、大きな丸形の石の上に登ってはるかに早池峰山の神様に祈願した。ある夜美しい女神が白馬に乗ってこの石上に現われ給い、無尽に霊泉を与えることを諾して消え失せた。一説には和尚、その女神の姿を描いておこうと思い、馬の耳を画き始めた時にはすでにその姿は消えてそこになかったともいう。来迎石と呼んでいるのはこの石のことであるが、また別にこの来迎石は、早池峰山の女神が無尽和尚の高徳に感じ、この石の上に立たれて和尚の誦経に聞き入った処だとも伝えている。女神から授けられた泉は、奴の井とも開慶水とも言い、今に湧き澄んでおり、この泉に人影がさせば大雨があると伝えられ、井戸のかたわらに長柄の杓を立てておくのはそのためだという。 四一 土淵村大字柏崎の新《しん》山《ざん》という処の藪の中に泉が湧いていて、そこが小さな池になっているが、この池でも水面に人影がさせば雨が降るといわれている。 四二 この地方で雨乞いをするには、六角牛山、石神山などの高山に登り千駄木を焚《た》いて祈るのが普通だが、また滝壷の中へ馬の骨などを投げ込んで、その穢《けが》れで雨神を誘う方法もある。松崎村字駒木の妻《さい》ノ神《かみ》の山中には小池があり、明神様を祀ってある。昔からこの池に悪戯《いたずら》をすると雨が降り、またその者にはよい事がないと言い伝えているが、近所の某という者そんなことがあるものかと言って、池の中に馬の骨や木石の類を投げ込んだ。するとこの男はその日のうちに気が狂って、行方不明になった。村じゅうの者が数日の間探し廻って見つからなかったが、半年以上も過ぎて池の周りの木の葉がすっかり落ちてしまうと、そこの大木の上にこの男が投げ上げられたような恰好で、もう骨ばかりになって載っているのが発見せられたという。 四三 青笹村の御前の沼は今でもあって、やや白い色を帯びた水が湧くという。先年この水を風呂にわかして多くの病人を入湯せしめた者がある。たいへんによく効《き》くというので、毎日参詣人が引きもきらなかった。この評判があまりに高くなったので、遠野から巡査が行って咎《とが》め、傍にある小さな祠まで足《あし》蹴《げ》にし、さんざんに踏みにじって帰った。するとその男は帰る途中で手足の自由が利かなくなり、家に帰るとそのまま死んだ。またその家内の者たちも病気にかかり、死んだ者もあったということである。これは明治の初め頃の話らしく思われる。 四四 この地方では清水のハヤリ神が諸処方々に出現して、人気を集めることがしばしばある。佐々木君幼少の頃、土淵村字栃内の鍋《なべ》割《わり》という所の岩根から、一夜にして清水が湧き出でてハヤリ神となったことがある。今から十二、三年前にも、栃内のチタノカクチという所で、杉の大木の根元から一夜のうちに清水が湧き出で、この泉が万病に効くというので日に百人近い参詣人があった。その水を汲んで浴場まで建てて一時流行したが、二、三か月で人気がなくなった。五、六年前には松崎村の天駒が森という山の麓に清水が湧き出しているのを、附馬牛村の虎八爺という老人が見つけ、これには黒蛇の霊験があるといいふらして大評判をとった。この時も参詣人が日に百人を越えたという。 四五 これより少し先のこと、この爺が山中でにわかに足腰が立たなくなって、草の上につっぷしていたところが、この清水が身近に湧き出しているのに気がつき、これを飲みかつ痛む箇処に塗りなどすると、たちまち躯の痛みが去って、気分さえさっぱりしたというのが、この清水の由来であった。松崎村役場の某という若者の書記が、こんなばかげたことが今日の世の中にあるものかと言って山に行ったが、清水の近所まで行くと、たちまち身動きができなくなって、傍らの草叢の上にうち倒れた。口だけは利くことができたので、虎八爺に助けてくれと頼むと、お前の邪心は許しがたいが、せっかくの願いゆえ助けてはやる。今後はけっしてかような慢心を起こしてはならぬと戒めて、その清水を汲んで飲ませた。するとすぐに躯の自由が利くようになったそうである。これはその直話である。 四六 佐々木君の友人で宮本某という人は土木業の監督をしているが、この人も行ってこの清水を拝んだという。その話に、泉の水を筆に含ませて白紙に文字を書くと、他の文字は書いてもよく読みがたいが、ただ一つ早池峰山大神と書く時だけは、少しも紙に水が散らないで、文字も明瞭に美しい。ゆえにこのハヤリ神は早池峰山の神にゆかりがあるのであろうと。事実、虎八爺も最初は黒蛇大明神云々と声を張り上げて祈祷していたのが、後には早池峰山大神云々と言っていたそうである。 四七 ハヤリ神が出現する時には、方々に引き続いて出るものである。綾織村でもやや遅れて、前と同様な由《ゆい》緒《しよ》で清水のハヤリ神が現われた。ここの祭りをしているのは、何とかいう老媼であったと聞いている。 四八 佐々木君自身も右のチタノカクチのハヤリ神に参詣した。行って見ると鍋《なべ》の蓋《ふた》に種々の願文を書いて奉納してあった。俗諺に、小豆餠とハヤリ神は熱いうちばかりと言い、ハヤリ神に鍋の蓋を奉納するのは、蓋をとって湯気の立ち登る間際のいちばん新しいところという気持だそうな。 四九 土淵村字栃《とち》内《ない》の山奥、琴畑という部落の入口に、地《じ》蔵《ぞう》端《ばた》という山があって、昔からそこに地蔵の堂が立っていた。この村の大《おお》向《むかい》という家の先祖の狩人が、ある日山にはいって一匹の獲物もなくて帰りがけに、こんな地蔵がおらの村にいるからだといって、鉄砲で撃って地蔵の片足を跛《びつこ》にした。その時から地蔵は京都へ飛んで行って、今でも京都の何とかいう寺にいる。一度村の者が伊勢参宮のついでに、この寺へ尋ねて行って、その地蔵様に行き逢って戻りたいと言うと、大きな足音をさせて聞かせたという話もある。今の地蔵端の御堂は北向きに建ててある。それは京都の方を見ないようにというためだそうだが、そのわけはよくわからない。 五〇 綾織村字新崎の西《にし》門《もん》館《だて》という小さな丘の上に、一本の老松があってその根もとに八幡様だという祠がある。御神体は四寸まわりくらいの懸《かけ》仏《ぼとけ》であるが、御姿が耶《ヤ》蘇《ソ》の母マリヤであるという説もある。この神像は昔から、よく遊びあるくので有名である。 五一 土淵村栃内の久保の観音は馬頭観音である。その像を近所の子供らが持ち出して、前阪で投げ転ばしたり、また橇《そり》にして乗ったりして遊んでいたのを、別当殿が出て行って咎めると、すぐにその晩から別当殿が病んだ。巫女に聞いて見たところが、せっかく観音様が子供らと面白く遊んでいたのを、お節介をしたのがお気にさわったというので、詫《わ》び言をしてやっと病気がよくなった。この話をした人は村の新田鶴松という爺で、その時の子供の中の一人である。 五二 また同村柏《かしわ》崎《ざき》の阿《あ》修《しゆ》羅《ら》社《しや》の三面の仏像は、御丈五尺もある大きな像であるが、この像をやっぱり近所の子供らが持ち出して、阪下の沼に浮かべて船にして遊んでいたのを、近くの先九郎どんの祖父が見て叱ると、かえって阿修羅様に祟られて、巫女を頼んで詫びをして許してもらった。 五三 遠野町字会《え》下《げ》にある十王堂でも、古ぼけた仏像を子供たちが馬にして遊んでいるのを、近所の者が神仏を粗末にすると言って叱りとばして堂内に納めた。するとこの男はその晩から熱を出して病んだ。そうして十王様が枕神に立って、せっかく自分が子供らと面白く遊んでいたのになまじ気の利くふりをして咎めだてなどするのが気に食わぬと、お叱りになった。巫女を頼んで、これから気をつけますという約束で許されたということである。 五四 同じ町の上組町でも、大師様の像に縄を掛けて、引きずり廻して喜んでいる子供たちがあるのを、ある人が見咎めて止めると、その晩枕神に大師様が立たれて、面白く遊んでいるのに邪魔をしたとお叱りになった。これもお詫びをして許されたそうな。 五五 琴畑の部落の入口の塚の上にある、三尺ばかりの不恰好な木像なども、同じように子供が橇にして雪すべりをしていたのを、通りかかった老人が小言を言って、その晩からたいへんな熱病になった。せっかく面白く遊んでいるのをなぜに子供をいじめたかと言って、ごせを焼いたという話がある。この森が先年野火のために焼けて、塚の上の神様が焼傷《やけど》をなされた。京都にいる姉この処さ飛んで行くべと思って飛んだども、体が重くてよく飛べなかった。ただごろごろと下の池まで転げ落ちて、たいへんな怪我をなされたのだそうな。誰がこんなことを知っているのかというと、それは皆、野崎のイダゴ(巫女)がそう言ったのである。 五六 遠野町の政吉爺という老人は、元は小友村字山室で育った人である。八、九歳の頃、村の鎮守篠《ささ》権《ごん》現《げん》の境内で、遊び友達と隠れガッコに夢中になっているうちに、中堂の姥《うば》神様の像の背後《うしろ》に入り込んだまま、いつの間にか眠ってしまった。すると、これやこれや起きろという声がするので目を醒《さ》まして見ると、あたりはすっかり、暗くなっており、自分は窮屈な姥神様の背中に凭《もた》れていた。呼び起こしてくれたのは、この姥神様なのであった。外へ出ようと思っても、いつの間にか別当殿が錠を下ろしていったものとみえ、扉が開かないので、しかたなしにそこの円柱に凭れて眠りかけると、また姥神様が、これこれ起きろと起こしてくれるのであったが、疲れているので眼を明けていられなかった。こうして三度も姥神様に呼び起こされた。その時、家の者や村の人たちが多勢で探しに来たのに見つけられて、家に連れ帰られたという。この姥神様は疱《ほう》瘡《そう》の神様で、丈《たけ》三尺ばかりの姥の姿をした木像であった。 五七 鱒沢村の笠の通《かよう》という権現様は、小正月の晩にその家で村の若者らを呼んで神楽をすると、自分も出て踊りたがって、座敷であばれてしょうがなかった。そこで若者たちはまず権現を土蔵の中に入れて、土戸をしめておいてから踊ったこともあるそうな。 五八 附馬牛の宿《しゆく》の新《しん》山《ざん》神社の祭礼の日、遠野の八幡様の神楽を奉納したことがあった。その夜八幡の権《ごん》現《げん》様《さま》は土地の山本某という家に一宿したが、その家も村の神楽舞いの家であったので、奥の床の間に家つきの権現様が安置してあって、八幡の権現をばその脇に並べて休ませた。ところが夜更けになって何かはなはだ烈しく闘うような物音が奥座敷の方に聞こえるので、あかりをつけて起きて行って見ると、家の権現とその八幡とが、上になり下になって咬み合っておられる。そうしてとうとう八幡の権現の方が片耳を喰い切られて敗北したということで、今にこの獅子頭には片耳がないという話。維新前後の出来事であったように語り伝えている。 五九 宮守村字塚沢の多田という家は、神楽の大夫の家であったが、この家の権現様もやはり耳取権現と呼ばれている。これはある年の権現まわしの日に、他の村の権現と出合って喧《けん》嘩《か》をして、片耳を取られたというのである。耳は取られても霊験はなおあらたかで、ある時家に失火のあった時などは、夜半に座敷でひどく荒れて家の人を起こし、かつ自分も飛び廻って火を喰い消していたということである。これは同家の息子の話であった。 六〇 鱒沢村字鞍迫の観音様は、たけ七尺ほどの黒《くろ》焦《こ》げの木像である。昔山火事で御堂が焼けた時、御体にも火が燃えついたので自分で御堂から飛び出し、前の沢の水中にはいって、難を遁《のが》れておられたと言い伝えられている。 六一 青笹村の菊池某という人の家に、土で作った六寸ばかりの阿弥陀様が、常に煤《すす》けて仏壇の上に祀られてあった。ある夜この家の老人熟睡していると、夢であったかその仏様が、つかつかと枕元まで歩んで来て、火事だ早く起きろと言われた。驚いて目を覚ましてみると竈《かまど》の口の柴に火がついて、家の内は昼間のようであった。急いで家の者を皆起こして、火は無事に消し止めたという。これは今から十年近く前の話である。 六二 昔遠野の六日町に火事のあった時、どこからともなく小さな子供が出て来て、火《ひ》笊《ざる》をもって一生懸命に火を消し始め、鎮火するとまたどこかへ見えなくなった。その働きがあまりにめざましかったので、後で、あれはどこの子供であろうと評判が立った。ところが下横町の青柳某という湯屋の板の間に小さな泥の足跡が、ぽつりぽつりとついていた。その跡を辿って行くと、家の仏壇の前で止まっており、中には小さな阿弥陀様の像が頭から足の先まで泥まみれになり、大汗をかいておられたということである。 六三 これは維新の少し前の話だという。町の華《け》厳《ごん》院《いん》に火事が起こって半焼したことがあった。始めのうちはいかに消防に力を尽してもなかなか火は消えず、今に御堂も焼け落ちるかと思う時、城から見ていると二人の童子が樹の枝を伝って寺の屋根に昇り、しきりに火を消しているうちにおいおい鎮火した。後にその話を聞いて住職が本堂に行って見ると、二つの仏像が黒く焦げていたということである。その像は一体は不動で一体は大日如来、いずれも名ある仏師の作で、御《お》長《たけ》は二寸ばかりの小さな像であるという。 六四 愛宕様は火《ひ》防《ぶせ》の神様だそうで、その氏子であった遠野の下通町辺では、五、六十年の間火事というものを知らなかった。ある時某家で失火があった時、同所神明の大徳院の和尚が出て来て、手桶の水を小さな杓で汲んで掛け、町内の者が駆けつけた時にはすでに火が消えていた。翌朝火元の家の者大徳院に来たり、昨夜は和尚さんのお蔭で大事に至らず、まことにありがたいと礼を述べると、寺では誰一人そんな事は知らなかった。それで愛宕様が和尚の姿になって、助けに来て下さったということがわかったそうな。 六五 野州古《こ》峰《ぶが》原《はら》は火《ひ》防《ぶせ》神としてはなはだ名高いので、遠野地方にも信心をする人が多い。この神様は非常に山芋がお好きということで、いつも講中の者は競うて山の長芋を献上する。その献上の仕方はただ自分の家の屋根の上へ、古峰原の神様に上げますと唱えて芋を置くと、その次の朝はもう見えない。そうして後になって、その神社から礼状が来るのである。ある時上郷村の某という者、講中に加わって野州の本社に参拝し、自分が長芋を持参せぬのをばつが悪く思って、実は宅のホラマエに置いて忘れてきましたと偽りを言った。そうすると社務所では、そんな事は気にかけるに及ばぬ、すぐに人をやって取り寄せようからと言うので、内心何となく不安を感じて寝た。そうすると翌朝神社の人が言うには、昨夜人を出して御宅のホラマエを探させたけれども、誰かの悪戯《いたずら》か長芋は見えなかった。それでそのしるしに少々見せしめをしてきたということである。以後は気をつけられるようにとの話なので、すぐに村へ返ってみると、ちょうどその晩に家の小屋が焼けていたという。土淵村の小笠原某という家でも、この神に祈願があって長芋を献上したが、太く見事な芋を家の食用に取っておいて、細いものばかりを屋根へ上げたところが、やがて火事が起こって家が焼けてしまった。当時これを見た者は皆この話をした。今から十二、三年前のことである。 六六 同じ村字飯《いい》豊《で》の今淵某の家では、七、八年前の春、桜の花の枝を採ってきて、四合瓶《びん》の空いたのに挿《さ》して仏壇に供え、燈明を上げたまま皆畑に出て、家には子供一人いなかった。しばらくしてふと家の方を見ると、内から煙が濛々と出ている。これはたいへんと急いで畑から馳け戻って、軒の近くへ来ると少し煙が鎮まった様子である。内に入って見れば火元は仏壇であった。燈明の火が走って位牌や敷板まで焼け焦げ、桜の花などはからからになっていたが、同じ狭い棚の中に掛けてある古峰原の御《お》軸《じく》物《もの》だけは、そっくりとして縁《ふち》さえ焼け損じていなかった。火を消してくだされたのもこの御札であろうと言って、今更のごとくありがたがっていた。こういう類の話は昔からいろいろあったようである。 六七 附《つく》馬《も》牛《うし》東禅寺の開山無尽和尚、ある時来《らい》迎《ごう》石《せき》の上に登って四方を見ていたが、急いで石から降りて奴《やつこ》の井の傍に行き、長柄の杓《ひしやく》をもって汲んで、天に向かって投げ散らすと、たちまち黒雲が空を蔽《おお》うて南をさして走った。衆徒たちはそのわけを知らずただ不思議に思っていると、後日紀州の高野山から状が来て、過日当山出火の節は、和尚の御力によってさっそくに鎮火しまことにかたじけない。よって御礼を申すということであった。 六八 前に言った会《え》下《げ》の十王様の別当の家で、ある年の田植え時に、家内じゅうのものが熱病にかかって、働くことのできる者が一人もなかった。それでこの田だけはいつまでも植つけができず黒いままであった。隣家の者、困ったことだと思って、ある朝別当殿の田を見廻りに行ってみると、誰がいつの間に植えたのか、生き生きと一面に苗が植え込んであった。驚いて引き返してみたが、別当の家では田植えどころではなく、皆枕を並べて苦しんでいた。怪しがって十王堂の中を覗いてみたら、堂内に幾つもある仏像が皆泥まみれになっていたということである。 六九 昔附馬牛村の某という者、旅をしてアラミの国を通ったところが、路の両側の田の稲が、いかにも好ましくじゃぐじゃぐと実り、赤るみ垂れていたので、種《たね》籾《もみ》にしようと思って一穂摘み取り懐に入れて持ち帰り、次の年苗代に播《ま》いてみるとオサ一枚になった。それは糯《もち》稲《いね》であったので、今年はどんなに好い餠が搗《つ》けるだろうと、やがて田植えをするとどのオサもどのオサも、青々と勢《せい》よく育った。ところがある日アラミから人が来て、この家の主人は去年の秋、おれの田の糯稲の穂を盗んできて播いた。この田もあの田も皆盗んで来た種だという。そんなことはないと言って争って見たけれども、それならばこの秋の出穂を見て、証拠をもって訴えると言って帰って行った。某はそれを心痛して、どうか助けてくださいと早池峰山に願掛けをして御山に登って、御参籠をして祷《いの》った。その秋ははたしてアラミの人がまたやって来て、共々に田に出て出穂を検《あらた》めてみようというので、しかたなしに二人で行ってみると、たしかに昨日まで糯稲であったものが、出た穂を見るとことごとく毛の長い粳稲《うるち》になっている。そこでアラミの人も面目がなく、詫びごとをして逃げるように帰ってしまった。これは全く早池峰山の御利益で、この稲は穂は粳だけれども本当は糯稲であった。それを生《おい》出《で》糯《もち》といって、今でもその種が少しは村に伝わっている。それからしてこの御山の女神は、盗みをした者でさえ加護なされるといって、信心する者がいよいよ多いのである。 七〇 遠野町字蓮華の九頭竜権現の境内に、化け栗枕栗などという栗の老樹がある。権現の御正体はすなわちこの樹であって、昔は女を人《ひと》身《み》御《ご》供《くう》に取った。その折枕にして頭を乗せていて、人を食ったのが枕栗であるという。 七一 この地方で三《みつ》峰《みね》様《さま》というのは狼の神のことである。旧仙台領の東《ひがし》磐《いわ》井《い》郡衣《ころも》川《がわ》村に祀ってある。悪事災難のあった時、それが何人かのせいであるという疑いのある場合に、それを見顕わそうとしてこの神の力を借りるのである。まず近親の者二人を衣川へやって御神体を迎えて来る。それは通例小さな箱、時としては御幣であることもある。途中は最も厳重に穢《けが》れを忌み、少しでも粗末な事をすれば祟りがあるといっている。一人が小用などの時には必ず別の者の手に渡して持たしめる。そうしてもし誤って路に倒れなどすると、狼に喰いつかれると信じている。前年栃内の和野の佐々木芳太郎という家で、何人かに綿《わた》〓《がせ》を盗まれたことがある。村内の者かという疑いがあって、村で三峰様を頼んで来て祈祷をした。その祭りは夜に入り家じゅうの燈火をことごとく消し、奥の座敷に神様をすえ申して、一人一人暗い間《ま》を通って拝みに行くのである。集まった者の中に始めから血色が悪く、合わせた手や顔を顫《ふる》わせている婦人があった。やがて御詣りの時刻が来ても、この女だけは怖がって奥座敷へ行きえなかった。強いて皆から叱り励まされて、立って行こうとして、膝がふるえ、打ち倒れて血を吐いた。女の供えた餠にも生血がついた。験はもう十分に見えたといってその女は罪を被せられた。表向きにはしたくないから品物があるならば出せと責められて、その夜の中に女は盗んだ物を持って来て村の人の前に差し出した。 七二 字山口の瀬川春助という人も、それより少し前に、浜へ行って八十円の金を盗まれた時、やはりこの神を頼んで来て罪人がすぐに現われ、表沙汰にせずに済んだ。明治四十三年に字本《もと》宿《じゆく》の留場某の家が焼けた時には、火をつけた者が隣部落にあるらしい疑いがあって、やはり三峰様を頼んで来て両部落の者が集まって祭りをしたが、その時は実は失火であったものか、とうとう罪人が顕われずにしまった。 七三 この祭りが終わると、すぐに三峰様は衣川へ送って行かなければならぬ。ある家ではそれを怠って送り届けずにいたために、その家の馬は一夜のうちにことごとく狼に喰い殺されたこともあったという。 七四 土淵村山口の南沢三吉氏のオクナイサマは、阿弥陀様かと思う仏画の掛軸であるが見れば眼がつぶれるから見ることができぬといっている。大同の家のオクナイサマは木像で、これに同じ掛軸がついているのであるが、南沢の家のはこればかりである。外に南無阿弥陀仏と書いた一軸の添えられてあることは両家共に同様であった。この南沢の家では、ある夜盗人が座敷にはいって、大きな箱を負うて逃げ出そうとして手足動かず、そのまま箱と共に夜明けまでそこにすくんでいた。朝になって家人がこれを見つけてびっくりしたが、近所の者だから、早く行けとののしって帰らせようとしたが、どうしても動くことができない。ふと心づくと仏壇の戸が開いているので、すぐにオクナイサマに燈明を上げて、専念にその盗人にお詫びをさせると、ようやくのことで五体の自由を得た。今から八十年ばかりも前の話である。 七五 オシラサマの神体は多くは烏《え》帽《ぼ》子《し》と丸頭のもの、または丸頭のみ二体というのが最も普通である。馬頭はそれよりもまた古い型ではないかと思う。注意すべきことはこの神の由来として伝えられる物語と、神の御姿との関係である。男神の頭を馬頭に刻んだのは少なくないが、時には姫神の髪を垂れた頭に、尖った二つの獣の耳だけをつけた例もある。全体に新しいものほど丈《たけ》が長くなっているかと思われ、中には一尺から一尺二、三寸のものもあるが、古いのは多くは短くなっている。馬頭のオシラはたいてい短くまた小さい。 七六 神の数は伝説その他から考えて、当然二体であるべきであるが、四体または六体の例も稀ではない。気《け》仙《せん》の盛《さかり》町《まち》の近在には、十二体のオシラサマを持つ家もあるといい、二《にの》戸《へ》郡浄法寺村の野田の小八という家では、オシラは三体でその一つは小児の姿であるという。しかし普通には村々の草分け、すなわち大同と呼ばれる家のものは二体であるらしい。そうするとあるいは家を分けて後に出た家だけが、何か理由があって新たにその数を加えたものではなかったか。土淵村五日市の北川氏は、今は絶えてしまったが、土淵の草分けと伝えられていて、この家のオシラサマは二体であった。その分家の火石の北川家では四体、そのまた分家の北川には六体であった。その形像も火石北川の本家の四体には馬頭のものも交っているが、分家の六体はすべて皆丸頭である。田の代《しろ》掻《か》きの手伝いをしたという柏崎の阿部家のオシラサマは四体であった。一体は馬頭で一体は烏帽子、他の二つは丸頭である。長《たけ》はいずれも五、六寸で、彫刻は原始的だが顔に凄《すご》味《み》を帯び、馬頭などはむしろ竜頭に似ている。 七七 オシラ様の由来譚も土地によって少しずつの差異がある。たとえば附馬牛村に行なわれる伝説の一つでは、天《てん》竺《じく》のある長者の娘が馬にとつぎ、その父これをにくんでその馬を殺して皮を松の木の枝に懸けておくと、娘はその樹の下に行き恋い慕うて泣いた。枝に懸けてある馬の皮はその声につれて翻り落ち、娘の体を包んで天に飛んだという。遠野の町あたりでいう話は、昔ある田舎に父と娘とがあって、その娘が馬にとついだ。父はこれを怒って馬を桑の木に繋《つな》いで殺した。娘はその馬の皮をもって小舟を張り、桑の木の櫂《かい》を操《あやつ》って海に出てしまったが、後に悲しみ死にに死んで、ある海岸に打ち上げられた。その皮舟と娘の亡骸とから、わき出した虫が蚕になったという。さらに土淵村の一部では、次のようにも語り伝えている。父親が馬を殺したのを見て、娘が悲しんでいうには、私はこれから出て行きますが、父は後に残って困ることのないようにしておく。春三月の十六日の朝、夜明けに起きて庭の臼《うす》の中を見たまえ、父を養う物があるからと言って、娘は馬と共に天上に飛び去った。やがてその日になって臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫がわいていた。それを桑の葉をもって養い育てた云々というのである。 七八 オシラサマは決して養蚕の神として祭られるだけではない。眼の神としても女の病を祈る神としても、また子供の神としても信仰せられている。遠野地方では小児が生まれると近所のオシラサマの取《とり》子《こ》にしてもらって、その無事成長を念ずる風がある。また女が癪《しやく》を病む時には、男がこれを持ち込んで平癒を祈ることもある。二戸郡浄法寺村辺では、巫女《いたこ》の神《かみ》降《おろ》しの時にもこれを用いるそうだが、同じ風俗はまた東磐井郡でも見られる。 七九 遠野地方のオシラ神祭は、主として正月十六日をもって行なわれる。この神に限って祭ることを遊ばすといっている。山口の大同家などでは、この日方々からこの家のオシラサマの取子たちが、大きな鏡餠を背負って寄り集まって来る。まず早朝に奥の薄暗い仏壇の中から、煤《すす》けたまっ黒な古い箱が持ち出され、一年にただ一度の日の明かりを見る神様が、この家の巫女《いたこ》婆《ばあ》様《さま》の手によって取り出される。そうして取子の娘や女たちの手で、新しい花染めの赤い布をきせられ、また年に一度の白粉を頭に塗られて、そのオシラサマが壇の上に飾られる。この白粉が家にも取子の娘たちにもなかった頃には、米の粉を水で溶いてつけることもあった。取子の持ち寄った鏡餠はそうした後で小豆餠に作られ、神様にも供えまた取子たちも食べた。この神は小豆類をたいへん好まれるということであった。それが終わると巫女の婆様は、おもむろに神体を手に執ってオシラ遊びを行なうのである。それには昔から言伝えのオシラ遊びの唱えごとがあった。まず神様の由来を述べて神様を慰め、それから短い方の章句を、知っている娘たちが合唱した。それは紫《し》波《ば》郡あたりに伝わっているものとほぼ同じで、ミヨンコ・ミヨンコ・ミヨンコの神は、トダリもない。七代めくらにならばなれという類の詞であった。そのオシラ遊びが済むとあとは随意で、取子の娘たちは室じゅうを遊ばせてまわり、後に炉ばたに持って来て、両手でぐるぐるまわして各自一年の吉凶を占った。すなわちこの神の持前のオシラセを受けようとするのであった。 八〇 山口の大同の家のオシラサマは、元は山崎の作右衛門という人の家から、別れてこの家に来たものであるという。三人の姉妹で、一人は柏崎の長九郎、すなわち前に挙げた阿部家にあるものがそれだということである。大同の家にはオクナイ様が古くからあって、毎年正月の十六日には、その二尺ばかりの大師様ともいう木像に、白粉を塗って上げる習わしであったのが、自然に後に来られたオシラサマにも、そうするようになったといっている。 八一 附馬牛村の竹原という老爺、家にオシラ神があったのに、この神は物咎めばかり多くて御利益は少しもない神だ。やれ鹿《しし》を食うなの肉を食うなのと、やかましいことを言う。おのれここへ来て鹿を喰《くら》えと悪口して、鹿の肉を煮る鍋の中へ、持って来て投げ込んだ。そうするとオシラサマはたちまち鍋より飛び上がって炉の中へ落ち、家の者は怖れて神体を拾い上げて仏壇に納めた。後にこの家の焼けた時にも、神は自分で飛び出して焼けず、今でも家に在ると、その老人の直話を聞いた者の話である。気仙の上《かみ》有《あり》住《す》村の立花某、家にオシラサマがあって鹿を食えば口が曲がるという戒めがあるにもかかわらず、その肉を食ったところがはたして口が曲がった。とんでもない事をする神様だと、怒って川に流すと、流れに逆らって上って来た。これを見て詫びごとをして持ち帰って拝んだけれども、ついに曲がった口はなおらなかった。 八二 栃内の留場某というのはこの神のある家の者で、四十余りの馬喰《ばくろう》渡世の男であったが、おれは鹿の肉をうんと食ったが、少しも口は曲がらなかったと、いばって語っているのを聞いた。火石の高室某という人はこれに反して、鹿の肉を食って発狂した。これもオシラサマのある家であった。後に巫女《いたこ》を頼んで拝んでもらって宥《ゆる》された。浜の大槌町の某という人も、やはりこの神を持ち伝えた家であったが、鹿の肉を食って口が曲がった。巫女《いたこ》の処へ行って尋ねると、遠野に在るオシラ神と共に祟っているということなので、山口の大同の家まで拝みに来たのを、佐々木君の母は見られたという。 八三 オシラ様を狩りの神と信じている者も多い。土淵村の菊池という狩人の家に、大切に持ち伝えている巻き物には、金の丸《たま》銀の丸、オコゼ魚にオシラ様、三《さん》途《ず》縄《なわ》に五月節句の蓬菖蒲、それから女の毛とこの九つを狩人の秘密の道具と記し、その次にはこういうことも書いてある。「狩の門出にはおしらさまを手に持ちて拝むべし。その向きたる方角必ず獲物あり。口伝」 八四 松崎村字駒木、真言宗福泉寺の住職佐々木宥尊氏の話に、この人の生家の附馬牛村大出などでも、狩の神様だという者が多い。昔は狩人が門出の時にオシラ様に祈って今日はどの方面の山に行ったらよいかを定めた。それには御神体を両手で挟み持ち、ちょうどベロベロの鉤《かぎ》をまわすようにまわして、その馬面の向いた方へ行ったものである。だからオシラ様は「御知らせ様」であろうと、思っているということであった。今でも山の奥では胞《え》衣《な》を埋める場所などを決めるために、こうしてこの神の指図を伺っている者があるという話である。 八五 また土淵村大字飯豊の今淵小三郎氏の話にも、オシラ様を鉤《かぎ》仏《ぼとけ》ということがあるという。正月十六日のオシラ遊びの日、年中の吉凶善悪を知るために、ちょうど子供等がベロベロの鉤をまわすようにして、神意を問うものだそうである。昔は大人も皆この占いをしたが、今では主として子供がやるだけで、この家ではついその正月にも炬《こ》燵《たつ》の上で、盛んにやっていたということである。 八六 ベロベロの鉤の遊びは他の土地にもあることと思うが、遠野地方では多くは放屁の主をきめる時に行なっている。子供が一人だけ車座の中に坐って萱《かや》や萩《はぎ》の茎を折り曲げて鉤にしたものを持ち、それを両手で揉《も》みながら次の文句を唱え、その詞の終わりに鉤の先の向いていた者に、屁の責任を負わせる戯れである。 なむさいむさい(あるいはくさい) べろべろの鉤《かぎ》は とうたい鉤で だれやひった、かれやひった ひった者にちょっちょ向け  しかしこの鉤遊びの誓文を立てぬ前に、もう挙動で本人はほぼ知れているゆえ、術者が機を制して、おのずから向くべき方に向くのはもちろんである。 八七 綾織村砂《いさ》子《ご》沢《ざわ》の多左衛門どんの家には、元御姫様の座敷ワラシがいた。それがいなくなったら家が貧乏になった。 八八 遠野の町の村《むら》兵《ひよう》という家には御《お》蔵《くら》ボッコがいた。籾殻などを散らしておくと、小さな児の足跡がそちこちに残されてあった。後にそのものがいなくなってから、家運は少しずつ傾くようであったという。 八九 前にいう砂子沢でも沢田という家に、御蔵ボッコがいるという話があった。それが赤塗りの手桶などをさげて、人の目にも見えるようになったら、カマドが左前になったという話である。 九〇 同じ綾織村の字大久保、沢某という家にも蔵ボッコがいて、時々糸車をまわす音などがしたという。 九一 附馬牛村のある部落の某という家では、先代に一人の六部が来て泊って、そのまま出て行く姿を見た者がなかったなどという話がある。近頃になってからこの家に十になるかならぬくらいの女の児が、紅《あか》い振袖を着て紅い扇《せん》子《す》を持って現われ、踊りを踊りながら出て行って、下窪という家にはいったという噂がたち、それからこの両家がケエッチヤ(裏と表)になったといっている。その下窪の家では、近所の娘などが用があって不意に行くと、神棚の下に座敷ワラシがうずくまっていて、びっくりして戻って来たという話がある。 九二 遠野の新町の大久田某という家の、二階の床の間の前で、夜になると女が髪を梳《す》いているという評判が立った。両川某という者がそんなことがあるものかと言って、ある夜そこへ行ってみると、はたして噂の通り見知らぬ女が髪を梳いていて、じろりとこちらを見た顔が、なんとも言えず物凄かったという。明治になってからの話である。 九三 遠野一《ひ》日《と》市《いち》の作平という家が栄え出した頃、急に土蔵の中で大釜が鳴り出し、それがだんだん強くなって小一時間も鳴っていた。家の者はもとより、近所の人たちも皆驚いて見に行った。それで山名という画工を頼んで、釜の鳴っている所を絵に描いてもらって、これを釜鳴神といって祭ることにした。今から二十年余り前のことである。 九四 土淵村山口の内川口某という家は、今から十年ほど前に瓦《が》解《かい》したが、一時この家が空家になっていた頃、夜中になると奥座敷の方に幽《かす》かに火がともり、誰とも知らず低い声で経を読む声がした。往来のすぐ近くの家だから、若い者などがまたかと言って立ち寄ってみると、御経の声も燈火ももう消えている。これと同様のことは栃内の和野の、菊池某氏が瓦解した際にもあったことだという。 九五 山に行ってみると、時折二股にわかれて生い立った木が、互いに捻《ねじ》れからまって成長しているのを見かけることがある。これは山の神が詰《つめ》(十二月)の十二日に、自分の領分の樹の数を算用するときに、〆めて何万何千本という時の記号に、終わりの木をちょっとこうして捻っておくのだそうな。だからこの詰《つめ》の十二日だけは、里の人は山にはいることを禁じている。もし間違えて山の木に、算え込まれてはたいへんだからという。 九六 貞《さだ》任《とう》山《やま》には昔一つ眼に一本足の怪物がいた、旗屋の縫という狩人が行ってこれを退治した。その頃はこの山の附近が一面の深い林であったが、後に鉱山が盛んになってその木はおおかた伐られてしまった。 九七 昔青笹村の力士荒滝は、六角牛山の女神から大力を授かったという話がある。附馬牛村字石《いし》羽《ば》根《ね》の佐々木権四郎という人はこの話を聞いて、おれは早池峰山の女神に力を授かるべしと祈願をしたが、後はたして川原の坊という処で、権四郎は早池峰の女神に行き逢うて、何かある品物を賜わってからたちまち思うままの大力となった。それは彼の二十歳前後の頃のことだったというが、今はもう八十余りになって、以前の気力はすこしもない。何でも五十ばかりの時に、元授かった場所に行ってその品物を女神に返したというが、それがいかなる物であったかは、けっして人に語らぬそうである。これは宮本君という人が直接に彼から聞いた話である。 九八 遠野の一日市に万吉米屋という家があった。以前は繁昌した大家であった。この家の主人万吉、ある年の冬稗《ひえ》貫《ぬき》郡の鉛ノ温泉に湯治に行き、湯槽に浸っていると、戸を開けて一人のきわめて背の高い男がはいって来た。退屈していた時だからすぐに懇意になったが、その男おれは天《てん》狗《ぐ》だといった。鼻はべつだん高いというほどでもなかったが、顔は赤くまた大きかった。そんなら天狗様はどこに住んでござるかと尋ねると、住居は定まらぬ、出羽の羽黒、南部では巌鷲早池峰などの山々を、行ったり来たりしているといって万吉の住所をきき、それではお前は遠野であったか。おれは五葉山や六角牛へも行くので、たびたび通って見たことはあるが、知合いがないからどこへも寄ったことがない。これからはお前の家に行こう。何の仕度にも及ばぬが、酒だけ多く御馳走をしてくれといい、こうして二、三日湯治をして、また逢うべしと言い置いてどこへか行ってしまった。その次の年の冬のある夜であった。不意に万吉の家にかの天狗が訪ねて来た。今早池峰から出て来てこれから六角牛に行くところだ。一《いつ》時《とき》も経《た》てば帰るから、今夜は泊めてくれ。そんなら行って来ると言ってそのまま表へ出たが、はたして二時間とも経たぬうちに帰って来た。六角の頂上は思いのほか、雪が深かった。そう言ってもおまえたちが信用せぬかと思ってこの木の葉を採って来たと言って、一束の梛《なぎ》の枝を見せた。町から六角牛の頂上の梛の葉のある所までは、片道およそ五、六里もあろう。それも冬山の雪の中だから、家の人は驚き入って真に神《かみ》業《わざ》と思い、深く尊敬して多量の酒を飲ましめたが、天狗はその翌朝出羽の鳥海に行くと言って出て行った。それから後は年に一、二度ずつ、この天狗が来て泊った。酒を飲ませると、ただでは気の毒だといって、いつも光り銭《せん》(文銭)を若干残しておくを例とした。酒が飲みたくなると訪ねて来るようにもとられる節があった。そういう訪問が永い間続いて、最後に来た時にはこう言ったそうである。おれももう寿命が尽きて、これからはお前たちとも逢えぬかも知れない。形《かた》見《み》にはこれを置いてゆこうと言って、著ていた狩《かり》衣《ぎぬ》のような物を脱いで残して行った。そうして本当にそれきり姿を見せなかったそうである。その天狗の衣もなおこの家に伝わっている。主人だけが一代に一度、相続の際とかに見ることになっているが、しいて頼んで見せてもらった人もあった。縫目はないかと思う夏物のような薄い織物で、それに何か大きな紋様のあるものであったという話である。 九九 遠野の町の某という家には、天狗の衣という物を伝えている。袖の小さな襦《じゆ》袢《ばん》のようなもので、品は薄くさらさらとして寒《かん》冷《れい》紗《しや》に似ている。袖には十六弁の菊の綾を織り、胴には瓢《ひよう》箪《たん》形の中に同じく菊の紋がある。色は青色であった。昔この家の主人と懇意にしていた清六天狗という者の著用であったという。清六天狗は伝うるところによれば、花巻あたりの人であったそうで、おれは物の王だと常にいっていた。早池峰山などに登るにも、いつでも人の後から行って、頂上に著いて見ると知らぬ間にすでに先へ来ている。そうしてお前たちはどうしてこんなに遅かったかと言って笑ったそうである。酒が好きで常に小さな瓢箪を持ちあるき、それにいくらでも酒を量り入れて少しも溢れなかった。酒代によく錆《さ》びた小銭をもって払っていたという。この家にはまた天狗の衣の他に、下駄をもらって宝物としていた。右の清六天狗の末孫という者が、今も花巻の近村に住んで、人はこれを天狗の家と呼んでいる。この家の娘が近い頃女郎になって、遠野の某屋に住み込んでいたことがある。この女は夜分いかに厳重に戸締りをしておいても、どこからか出て行って町をあるきまわり、または人の家の林《りん》檎《ご》園《えん》にはいって、果物を採って食べるのを楽しみにしていたが、今は一ノ関の方へ行って住んでいるという話である。 一〇〇 青笹村の某という者、ある日六角牛山に行ってマダの木の皮を剥《は》いでいると、出し抜けに後から呼ぶ者があるので、驚いて振り向いて見ればたけ七尺もあろうかと思う男が立っていて、自分の木の皮を剥ぐのを感心して見ていたのであった。そうしてその木の皮を何にするかと訊くから、恐る恐るその用途を話してきかせると、そんだらおれも剥いですけると言って、マダの木をへし折り皮を剥ぐこと、あたかも常人が草を折るようであった。たちまちにして充分になったので某はもうよいというと、今度は大男、傍の火であぶっておいた餠を指ざして、少しくれという。某はうなずいて見せると、無遠慮に皆食うてしまった。そうして言うことは、ああうまかった。来年の今頃もお前はまた来るか。もし来るならおれも来てすけてやろうから、また餠を持って来てくれと言った。某は後難を恐れてもう来年は来ないと答えると大男、そんだら餠を三升ほど搗《つ》いて、何月何日の夜にお前の家の庭に出しておいてくれ、そしたらお前の家で一年じゅうだけのマダの皮を持って行ってやるからと言うので、それまでも断わりきれずに約束をして別れて来た。その翌年の約束の日になって、餠を搗き小餠に取り膳に供えて庭上に置くと、はたして夜ふけに庭の方で、どしんという大きな音がした。翌日早朝に出て見れば、およそ馬に二駄ほどのマダの皮があって、もうその餠は見えなかったという。この話は今から二代前とかの出来事であったというが、今の代の主人のまだ若年の頃までは、毎年の約束の日に必ずマダの皮を持って来てくれたものであった。それがどうしたものかこの三十年ばかり、いくら餠を供えておいても、もうマダの皮は運ばれないことになったという。 一〇一 これとやや似た話が二《にの》戸《へ》郡の浄法寺にもあったそうな。遠野の事ではないがこのついでに書いておくと、浄法寺村字野田の某という者、ある日山へ行くとて途中で一人の大男と道づれになった。大男はしきりにお前の背負っている物は何だといって、弁当に持って来た餠をなぶりたがってしょうがなかった。これは餠だと言うと、そんだら少しでいいからくれと言う。分けてやると非常に悦《よろこ》んで、お前の家でははや田を打ったかと問うた。まだ打たないと答えたところが、そんだら打ってやるから何月何日の夜、三本鍬といっしょに餠を三升ほど搗いて、お前の家の田の畔《くろ》に置け。おれが行って田を打ってくれると言うので、某も面白いと思うて承知した。さてその当夜餠を搗いて田の畔へ持って行って置き、翌朝早く出て見ると、三本鍬は元の畔の処にあって、餠はもうなかった。田はいかにもよく打っておいてくれたが、甲乙の差別もなく一面に打ちめしたので、大小の畔の区別もわからぬようになっていたという。その後も某はたびたび大男に行き逢った。友だちになったので山へ行くたびに、餠をはたられるには弱ったということである。大男が言うには、おれはごく善い人間だがおれの嬶《かかあ》は悪いやつだから、見られないようにしろとたびたび聞かせたそうである。これも今から七十年ばかりも前の事であったらしい。 一〇二 明治も末頃のある年、土淵村栃内大楢の大楢幸助という兵隊上りの男が、六角牛山に草刈りに行って、かつて見知らぬ沢に出た。そこの木の枝にはおびただしい衣類が洗濯して干してあった。驚いて見ているところへ、一人の大男が出て来て、その洗濯物を取り集め、たちまち谷の方へ見えなくなってしまったという。これは本人の直話である。 一〇三 同村字山口の火石の高室勘之助という老人が中年に、浜歩きを業としていた頃のことである。ある日大槌浜から魚を運んで帰る途中、山《やま》落《おとし》場《ば》という沢の上まで来て下を見ると、谷間のわずかの平《たいら》に一面に菰莚《むしろ》を敷き拡げて干してあった。不思議に思って、馬を嶺に立たせておいて降りて行って見たが、もう何者か取り片づけた後で、一枚もなかったという。この老人は明治の末に八十三で死んだ。これはその孫に当たる者から聞いた話である。 一〇四 ある人が鱒《ます》沢《ざわ》村から稗《ひえ》貫《ぬき》郡の谷《たに》内《ない》へ越える山路で、山男の草《ぞう》履《り》の脱いであるのを見た。篠竹で作った、長さ六尺もあろうかと思う大きなもので、傍の藪の中には赤顔の大男が熟睡していたそうである。これは大正の始め頃のことで、見たという本人はその頃五十くらいの年配であった。 一〇五 同じ頃の話だというが、松崎村字駒木の子供が西《にし》内《ない》山《やま》で一人の大男に行き逢った。萩草刈り時のある日の午《ひる》過ぎのことであった。その男は普通の木綿のムジリを着て、肩から藤蔓で作った鞄のような物を下げていた。その中には何匹もの蛇がぬたくり廻っていたそうである。子供は驚いて、路傍の草叢にはいったまますくんでいると、その男は大急ぎで前を通り過ぎて行ってしまった。それでやっと生きた心持になり、駆け出して村に帰りついたという。正月遊びの夜、若者たちから聞いた話である。 一〇六 土淵村栃内和野の菊池栄作という狩人が、早池峰に近い、附馬牛村の大《おお》出《いで》山中で狩り暮らし、木の間から洩れる薄明かりをたよりに自分の小屋へ帰って来る途中で、突然一人の男に出逢った。その男は目をきらきらと丸くしてこちらを見守りつつ過ぎるので怪しく思って、どちらへと言葉をかけてみた。するとその男は牧場小屋へ行きますと言って、密林を掻き分けて行ったという。佐々木君はこの狩人と友人で、これもその直話であったが、冬期の牧場小屋には番人がいるはずはないと言うことである。その男の態《なり》は薄暗くてよくわからなかったが、麻のムジリを著て、藤蔓で編んだ鞄を下げていたそうである。丈《たけ》はときくと、そうだなあ五、六尺もあったろうか、年配はおらくらいだったという答えであった。大正二年の冬頃のことで、当時この狩人は二十五、六の青年であった。 一〇七 下《しも》閉《へ》伊《い》郡の山田町へ、関口という沢から毎市日のように出て来ては、いろいろな物を買って戻る男があった。顔じゅうに鬚《ひげ》が濃く、眼色が変わっているので、町の人はあれはただの人間ではあるまいと言って、殺して山田湾内の大島に埋めた。そのゆえであったか、その年からたいへんな不漁が続いたという。これは山田町へ駄賃づけに通うていた、土淵村の虎爺という老人の若かった頃の話である。 一〇八 土淵村字山口の石田某の家の男たちは、いずれも髪の毛を掻き乱し、目は光り、見るからに山男らしい感じがする。夏の禁猟期間は川漁をしているが、それ以外は鳥獣を狩りて日を送っている。この家は元は相当の資産家で田畑もあったが、男たちが農を好まぬためにしだいに畑が荒れ、もてあましては売ってしまって、今は村一の貧乏人になった。家屋敷も人手に渡し、山手の方に小さい家を建ててそこに住んでいる。自製の木弓で自由に小鳥の類まで射落し、これを食料に足しているようである。それから分家した次男も農をせず、狩りに親しんでいる。 一〇九 遠野町の某という若い女が、夫と夫婦喧嘩をして、夕方門辺に出てあちこちを眺めていたが、そのままいなくなった。神隠しに遭ったのだといわれていたが、その後ある男が千《せん》磐《ばん》が岳へ草刈りに行くと、大岩の間からぼろぼろになった著物に木の葉を綴り合わせたものを著た、山姥のような婆様が出て来たのに行き逢った。お前はどこの者だというので、町の者だと答えると、それでは何町の某はまだ達者でいるか、俺はその女房であったが、山男にさらわれて来てここにこうして棲んでいる。お前が家に帰ったら、これこれの処にこんな婆様がいたっけということを言《こと》伝《づて》してけろ。俺も遠目からでもよいから、夫や子供に一度逢って死にたいと言ったそうである。この話を聞いて、その息子に当たる人が多勢の人たちを頼んで千磐が岳に山母を尋ねて行ったが、どういうものかいっこう姿を見せなかったということである。 一一〇 前に言った遠野の村兵という家では、胡瓜《きゆうり》を作らぬ。そのわけは、昔この家の厩《まや》別《べつ》家《け》に美しい女房がいたが、ある日裏の畠へ胡瓜を取りに行ったまま行方不明になった。そうしてその後に上《かみ》郷《ごう》村の旗屋の縫が六角牛山に狩りに行き、ある沢辺に下りたところが、その流れに一人の女が洗濯をしていた。よく見るとそれは先年いなくなった厩《まや》別《べつ》家《け》の女房だったので、立ち寄って言葉を掛け、話をした。その話に、あの時自分は山男に攫《さら》われて来てここに棲んでいる。夫はいたって気の優しい親切な男だが、きわめて嫉妬深いので、そればかりが苦の種である。今は気仙沼の浜に魚を買いに行って留守だが、あそこまではいつも半刻ほどの道のりであるから、今にも帰って来よう。けっしてよい事はないから、どうぞ早くここを立ち去ってくだされ。そうして家に帰ったら、私はこんな山の中に無事にいるからと両親に伝えてくれと頼んだという。それからこの家では胡瓜を植えぬのだそうである。 一一一 栗橋村アカスパの某という狩人、先年白見山で雨に降り込められて、霧のため山を出ることができなかった。木の根にもたれて一夜を明かしたが、夜が明けて雨が晴れたので、そこを歩き出すと、ひどく深い谷へ落ちた。その時に向こうから髪をおどろに振り乱した女がやって来るのに逢った。著物は全くちぎれ裂け、素足であったが、たしかに人間であった。鉄砲をさし向けると、ただ笑うばかりである。幾度も打とう打とうと覘《うかが》いながら打ちかねているうちに、女は飛ぶように駆け出して、谷の奥へはいって見えなくなった。後に聞いた話では、これは小国村の狂女で、四、五年前家出をして行方不明になった女だったろうとのことである。それでは白見にいたのかと人々は話し合っていたが、はたしてその狂女であったかどうかはわからない。 一一二 土淵村の若者共が同勢二十人ほどこぞって、西内山付近にある隣村の刈草場へ、刈草を盗みに行った時のことである。こういう時には、どうかすると山で格闘をしなければならぬことがあるので、それぞれその準備をして行った。一行のうち宇野崎の某が一人、群れから離れて谷の古沼の方へ下りて行くのを、たぶん水を飲みに行ったのだろうくらいに思っていたが、盗んだ草を馬に荷なって帰り仕度をしてしまった後になっても、その男一人帰って来ない。ぐずぐずしていて隣村の手合いに見つけられてはと、皆谷に下って尋ね歩くと、その男が帯を解き小川を溯って獣のように速く走って行くのが見えた。皆で呼んでもいっこう見向きもせず、聞こえないふうであったから、しかたなしに皆して取り巻いて捉まえると、その男はぼんやりと気の抜けた顔をしている。どうしたのだと尋ねると、初めて夢からさめたように、実はさっき俺が沢に水を飲みに下りて行くと三角(若い女が頭に冠る三角形の布《きれ》)を冠った女がいて笑いかけるので、今までいっしょに話をしていたのだが、お前たちが見えると、女は兎かなんどのように向こうへ飛んで行ってしまったのだと語った。皆して叱りとばして連れ帰ったが、二、三日の間なんとなくぼんやりしていたそうである。その男はすなおな、物静かな性質の若者であったという。明治の末頃の話である。 一一三 綾織村から宮守村に越える路に小《こ》峠《とうげ》という処がある。その傍の笠の通《かよう》という山にキャシャというものがいて、死人を掘り起こしてはどこかへ運んで行って喰うと伝えている。また、葬式の際に棺を襲うともいい、その記事が遠野古事記にも出ている。その恠物であろう。笠の通《かよう》の付近で怪しい女の出て歩くのを見た人が、幾人もある。その女は前帯に赤い巾《きん》著《ちやく》を結び下げているということである。宮守村の某という老人、若い時にこの女と行き逢ったことがある。かねてから聞いていたように、巾著をつけた女であったから、生け捕って手柄にしようと思い、組打ちをして揉み合っているうちに手足が痺《しび》れ出して動かなくなり、ついに取り逃がしてしまったそうな。 一一四 同じような話がまだ他にもある。稗貫郡外《そと》川《かわ》目《め》村の猟人某もこの女に行き逢った。鉄砲で打ち殺そうと心構えをして近づいたが、急に手足が痺れ声も立たず、そのまま女がにたにたと笑って行き過ぎてしまうまで、一つ処に立ちすくんでいたという。後でこの男はひどく患ったそうな。およそ綾織宮守の人でこの女を見た者は、きっと病気になるか死ぬかしたが、組打ちをした宮守の男ばかりは何事もなかったということであった。 一一五 金沢村の老狩人が、白見山に狩りに行って山中で夜になった。家に帰ろうとして沢を来かかると、突然前に蝋《ろう》燭《そく》が三本、ほとほとと燃えて現われた。立ち止まって見ていると、その三本がしだいに寄り合ってふっと一本になり、焔がやや太く燃え立ったと思うと、その火の穂から髪を乱した女の顔が現われて、薄気味悪く笑った。この狩人が、やっと自分に帰ったのは夜半であったそうな。たぶん狐《こ》狸《り》のしわざだろうということであった。大正二年の秋のことで、この話はこの地方の小林区署長が自身金沢村で聞いた話だと前置きして語ったものである。 一一六 土淵村字野崎に前川勘右衛門という三十過ぎの男がいた。明治の末のことであるが、前に言った山《やま》落《おとし》場《ば》へ萱刈りに行き、小屋掛けして泊っていたところが、小屋のすぐ後から年寄りの声で、ひどく大きくあはははと二度まで笑ったそうである。また同じ人が白見山で、女の髪の赤い抜け毛が丸めて落ちているのを見たそうだが、この種の抜け毛は猟人はよく見かけることのあるものだといわれている。 一一七 野崎の佐々木長九郎という五十五、六の男が、木を取りに白見山にはいり、小屋を掛けて泊っていた時のことである。ある夜谷の流れで米を磨《と》いでいると、洞《ほら》一つ隔てたあたりでしきりに木を伐る音が聞こえ、やがて倒れる響きがした。恐ろしくなって帰って来ると、まさに小屋にはいろうとする時、待てえと引き裂くような声で何ものかが叫び、小屋の中にいた者も皆顔色がなかった。やはり同じ頃のことで、これは本人の直話であった。 一一八 小槌の釜渡りの勘蔵という人が、カゲロウの山で小屋がけして泊っていると、大嵐がして小屋の上に何かが飛んで来てとまって、あいあいと小屋の中へ声をかけた。勘蔵が返事をすると、あい東だか西だかとまた言った。どう返事をしてよいかわからぬのでしばらく考えていると、あいあい東だか西だかと、また木の上で問い返した。勘蔵は、なに東も西もあるもんかと言いざま二つ弾丸《だま》をこめて、声のする方を覗《うかが》って打つと、ああという叫び声がして、沢鳴りの音をさせて落ちて行くものがあった。その翌日行ってみたが何のあともなかったそうである。何でも明治二十四、五年の頃のことだという。 一一九 土淵村の若者たちが四、五人、琴畑川へ木流しに行った時のことである。不動ノ滝の傍にある不動堂に泊っていたが、夜嵐が烈しかったので、堂の戸を堅く締め切っておいたのに、夜明けになってみると、その中の一人が堂の外に投げ出されたまま、前後不覚で熟睡をしていた。宵に締めた戸はそのままであったから、これは神業というものであろうと言い合って恐れた。六、七年前の冬のことである。 一二〇 今は遠野町に住む政吉爺という土淵村の猟師が三十五、六の頃、琴畑の奥の小《こ》厚《あつ》楽《らく》というガロダチで、岩の上に登ってシカオキを吹いていると、不意に後から何ものかに突き飛ばされた。しばらくは呼吸が止まり、そのまま身動きもできずに倒れていたが、ようやく這って皆のいる小屋まで帰ることができた。その時老人の話に、猟人はたびたびそんなことに出逢うものだ。必ず人に語るものではないとかたく戒められたということである。この辺は昔から山男や山女の通り道といわれている処である。 一二一 土淵村の鉄蔵という男の話に、早池峰山の小国村向きにあるタイマグラという沢には不思議なことばかりあるという。下村の某という男がいわな釣りに行ったところが、山奥の岩《がん》窟《くつ》の蔭に、赤い顔をした翁《おきな》と若い娘とがいた。いずれも見慣れぬ風俗の人たちであったそうである。このタイマグラの土地には、谷川を挟んで石垣の畳を廻《めぐ》らした人の住居のようなものが幾か所も並んである。形は円形に近く、広さは二間四方ばかりあって、三尺ほどの入口も開《あ》いている。昔は人が住んでいたのであろうといわれ、今でもどこかで鶏の声がするという。この話をした鉄蔵も、魚を釣りながら耳を澄ましていたら、つい近くで、本当に朗らかな鶏の鳴き声がはっきりと聞こえたそうである。これはもう十年近くも前の話であった。 一二二 このタイマグラの河《かつ》内《ち》に、巨岩でできた絶壁があって、そこに昔安倍貞任の隠れ家があったといい、これを安倍が城とも呼んでいた。下から眺めるとすぐ行けそうに見えるが、実は岩がきつくて、特別の路を知らぬ者には行くことができぬ。その路を知っている者は、小国村にも某という爺様一人しかいない。土淵村の友蔵という男は、この爺様に連れられて城まで行ったことがあるそうな。その時もすぐ近くに見えている城までなかなか行けなくて、小半日かかってようやく行きついた。城の中は大石を立て並べて造った室で、貞任の使ったという石の鍋《なべ》、椀《わん》、庖丁や石棒等があった。昔は雨の降る時など、この城の門を締める音が遠く人里まで聞こえたものだそうだが、その石の扉は先年の大暴風の時に吹き落とされて、岩壁から五、六間下に倒れていたという話である。 一二三 物見山の山中には小豆平という所がある。昔南部の御家中の侍で中館某という者が鉄砲打ちに行き、ここで体じゅうに小豆をつけた得体の知れぬものに行き逢った。一発に仕止めようとしたが、命中せず、ついにその姿を見失った。それからここを小豆平というようになり、狩人の間に、ここで鉄砲を打っても当たらぬと言い伝えられている。 一二四 村々には諸所に子供らが恐れて近寄らぬ場所がある。土淵村の竜ノ森もその一つである。ここには柵に結ばれた、たいそう古い栃の樹が数本あって、根元には鉄の鏃《やじり》が無数に土に突き立てられている。鏃は古く、多くは赤く錆びついている。この森は昼でも暗くて薄気味が悪い。中を一筋の小川が流れていて、昔村の者、この川でいわなに似た赤い魚を捕り、神様の祟《たた》りを受けたと言い伝えられている。この森に棲《す》むものは蛇の類などもいっさい殺してはならぬといい、草花のようなものもけっして採ってはならなかった。人もなるべく通らぬようにするか、余儀ない場合には栃の樹の方に向かって拝み、神様の御機嫌にさわらぬようにせねばならぬ。先年死んだ村の某という女が、生前と同じ姿でこの森にいたのを見たという若者もあった。また南沢のある老人は夜更けにこの森の傍を通ったら、森の中に見知らぬ態《なり》をした娘が二人でぼんやりと立っていたという。竜ノ森ばかりでなく、この他にも同じような魔所といわれる処がある。土淵村だけでも熊野ノ森の堀、横道の洞、大洞のお兼塚などすくなくないし、また往来でも高室のソウジは恐れて人の通らぬ道である。 一二五 字栃内林崎にある宝竜ノ森も同じような場所である。この森の祠は鳥居とは後向きになっている。森の巨木にはものすごい太い藤の蔓《つる》がからまり合っており、ある人が参詣した時、この藤がことごとく大蛇に見えたともいわれる。佐々木君も幼少の頃、この祠の中の赤い権現頭を見て、恐ろしくて泣いたのをはっきり憶えているという。 一二六 狩人の話では早池峰山の主は、三面大黒といって、三面一本脚の怪物だという。現在の早池峰山の御本尊は黄金像の十一面観世音であって、大黒様のお腹仏だといい伝えている。その大黒様の像というのは、五、六寸ほどの小さな荒削りの像である。早池峰山の別当寺を大黒山妙泉寺と称えるのも、この大黒様と由縁《いわれ》があるからであろうとは、妙泉寺の別当の跡《あと》取《と》りである宮本君の言であった。この人の母が若かった時代のことというが、寺男に酒の好きな爺がいて、毎朝大黒様に御神酒を献げる役目であった。いつもその御神酒を飲みたいものだと思っては供えに行くのであったが、ある朝大黒様が口をきかれ、俺はええからお前たちが持って行って飲めと言われた。爺は驚いて仲間の者のいる処へ逃げ帰ってこのことを告げたが、皆はボガ(虚言)だべと言って本当にしなかった。ためしに別の男が御神酒を持って行って供えることになったが、再びその時も大黒様は口をきかれて、俺が飲んだも二つないから、そっちへ持って行って飲めと言われたという。物言い大黒といって、たいへんな評判だったそうな。 一二七 綾織村では昔一人の旅僧がやって来て、物も食わず便所にも行かず、ただ一心に仏の御姿を彫刻していた。それがいかにも優れた木像だったので、村の人が頼みにゆくといつの間にか去って行き方が知れなかったという話が伝わっている。あるいは木《もく》食《じき》上《しよう》人《にん》などではなかったかと思う。 一二八 三、四十年も前のことであるが、小友村に薄ばかのように見える風変わりな中年の男がいた。掌に黒い仏像を載せて、めんのうめんのうと唱えては、人の吉凶を占ったという。 一二九 上郷村大字佐《さ》比《び》内《ない》、赤沢の六神石神社の御本尊は、銅像にしてもと二体あった。昔から金の質が優れて良いという話であったが、一体はいつの間にか盗まれてなくなり、一体ばかり残っていた。その一体もある時盗み出した者があって、これを佐比内鉱山の鉱《か》炉《ま》に入れて、七日七夜の間吹いたけれどもどうしても熔《と》けないので、盗人も恐れ入って社に返してきたという。今もある御神体がすなわちそれである。 一三〇 佐比内に太田館という丘がある。昔石田宗晴という殿様が住んでいたが、気仙から攻められて滅亡した。その時館の主は白毛の馬に乗ったまま、丘の下の丸井戸という沼にはいって死に、その甲につけていた千手観音も、共に沈んでこの沼の底に在ると伝えられる。日露戦争の時、この殿様の後《こう》裔《えい》という太田初吉が出征することになり、神仏に無事を祈願したところが、巫女《みこ》の言うにはこの丸井戸の中に、観音様と大黒天とが沈んでいるゆえ、それを掘り出してから出陣せよとのことであった。すなわち人々に助けられて沼跡を掘りかえしてみると、大黒天の方は見当たらなかったが、観音様は見つけ出した。きわめて小さな八分ばかりの御像であった。今の沢口の観音堂の御本尊がそれである。 一三一 金の鶏や漆万杯の話がある館跡はいくつもある。土淵の一村だけでも、字角城の角城館、下栃内の八幡沢館などいずれも松の根を掘りに行って壷《つぼ》を見つけたとか、放れ馬の蹄《ひづめ》に朱漆がついて帰って来たとかいう口碑がある。また字琴畑の奥の長者屋敷には、五つ葉のウツギがあって、その木の下には宝物が埋まっていると伝えている。字山口の梵字沢館にも、宝物を匿《かく》して埋めた処があるという。堺《さかい》木《げ》の乙蔵爺が死ぬ前に、おればかりその事は知っている。誰か確かな者に教えておきたいと言っていたが、誰も教わりにゆかぬうちに爺は死んでしまった。 一三二 上郷村字佐比内の笹久保という処には、昔一人の女長者が住んで栄えたと伝えられる。その笹久保の前の稲荷淵のほとりに、かると石という大石が今でもあるが、これはその女長者の家の唐《から》臼《うす》の上につけた重《おも》し石であったという。 一三三 昔上郷村大字板沢の太《たい》子《し》田《だ》に、仁左衛門長者という長者があった。それから佐比内には羽《は》場《ば》の藤兵衛という長者があった。ある時この羽場の藤兵衛が、おれは米俵を横田の町まで並べて見せるというと、仁左衛門はそんだらおれは小判を町まで並べてみせようといったという。これほど豪勢な仁左衛門長者ではあったが、やはり命数があって、一夜のうちに没落してしまった。ある年の春のことであった。苅《かつ》敷《ちき》を刈らせに多くの若い者を、わが持ち山へ馬を曳かせて出したが、先立ちの馬が五、六町も離れた切懸長根まで行っているのに、まだあとの馬は厩から出《で》あげなかったという話である。ところが山に登ってまだ苅敷を採り切らぬうちに、にわかに大雨が降って来たので、若者共は空《から》馬《うま》で帰って来た。仁左衛門長者はこれを見て、おれの家では昔から山《やま》降《お》り前に家に帰って来た例《ためし》がない。おれの代にそんな事をさせては名折れだといって、大きに叱って大雨の中を引き返させた。しかし若者だちは山には行かれぬので、大《おお》平《でえら》の河原に馬を繋いでおいて、その夜は近所の家にはいって泊った。ところが次の朝起きて河原を見ると、一晩の大水のためにあるかぎりの馬が、一頭も残さず流されていた。これが仁左衛門長者の滅亡であったという。 一三四 土淵村の大楢という処に、昔は林吉という金持が栄えていたそうなが、今はその家の跡もない。この家には一疋の白い犬を飼っていたのを、何か仔細があってその犬を殺し、皮を剥いで骸を野原に棄てさせた。するとその翌日家の者が起きて土間の地火炉に火を焚こうとして見ると、昨日の犬が赤くなって来てあたたまっていた。驚いて再び殺し捨てたが、その事があって間もなく、続けさまに馬が七頭も死んだり、大水が出て流されたりして、家が衰えてついに滅びてしまった。豪家の没落には何かしら前兆のあるもののように考えられている。 一三五 青笹村大字中沢の新蔵という家の先祖に、美しい一人の娘があった。ふと神隠しにあって三年ばかり行方が知れなかった。家出の日を命日にして仏《ほとけ》供《く》養《よう》などを営んでいると、ある日ひょっくりと家に帰って来た。人々寄り集まって今までどこにいたかと聞くと、私は六角牛山の主《ぬし》のところに嫁に行っていた。あまり家が恋しいので、夫にそう言って帰って来たが、またやがて戻って行かねばならぬ。私は夫から何事でも思うままになる宝物をもらっているから、今にこの家を富貴にしてやろうと言った。そうしてその家はそれから非常に裕福になったという。その女がどういうふうにして再び山に帰って往ったかは、この話をした人もよくは聴いていなかったようである。 一三六 遠野の豪家村兵の家の先祖は貧しい人であった。ある時愛宕山下の鍋が坂という処を通りかかると藪の中から、背負って行け、背負って行けと呼ぶ声がするので、立ち寄ってみると、一体の仏像であったから、背負って来てこれを愛宕山の上に祀った。それからこの家はめきめきと富貴になったと言い伝えている。 一三七 遠野の町の某、ある夜寺ばかりある町の墓地の中を通っていると、向こうから不思議な女が一人あるいて来る。よく見ると同じ町でつい先頃死んだ者であった。驚いて立ちどまっている処へつかつかと近づいて来て、これを持って行けと言うてきたない小袋を一つ手渡した。手に取ってみるに何か小《こ》重《おも》たい物であった。恐ろしいから急いで逃げ帰り、家に来て袋を開けて見ると、中には銀貨銅貨を取り交ぜて、多量の金《かね》がはいっていた。その金はいくら使ってもなくならず、今までの貧乏人が急に裕福になったという噂である。これはつい近い頃の話であったが、俗に幽霊金といって昔からままあることである。一文でもいいから袋の中に残しておくと、一夜のうちにまた元の通りにいっぱいになっているものだといわれている。 一三八 遠野の町に宮という家がある。土地で最も古い家だと伝えられている。この家の元祖は今の気仙口を越えて、鮭《さけ》に乗ってはいって来たそうだが、その当時はまだ遠野郷は一円に広い湖水であったという。その鮭に乗って来た人は、今の物見山の岡続き、鶯《うぐいす》崎《ざき》という山《やま》端《ばた》に住んでいたと聞いている。その頃はこの鶯崎に二戸愛宕山に一戸、その他若干の穴居の人がいたばかりであったともいっている。この宮氏の元祖という人はある日山に猟に行ったところが、鹿の毛皮を著ているのを見て、大《おお》鷲《わし》がその襟《えり》首《くび》をつかんで、攫《さら》って空高く飛び揚がり、はるか南の国のとある川岸の大木の枝に羽を休めた。その隙に短刀をもって鷲を刺し殺し、鷲もろとも岩の上に落ちたが、そこは絶壁であってどうすることもできないので、下著の級《まだ》布《ぬの》を脱いで細く引き裂き、これに鷲の羽をない合わせて一筋の綱を作り、それに伝わって水際まで下りて行った。ところが流れが激しくてなんとしても渡ることができずにいると、折よく一群の鮭が上って来たので、その鮭の背に乗って川を渡り、ようやく家に帰ることができたと伝えられる。 一三九 宮の家が鶯崎に住んでいた頃、愛宕山には今の倉堀家の先祖が住んでいた。ある日倉堀の方の者が御《ご》器《き》洗《あらい》場《ば》に出ていると、鮭の皮が流れて来た。これは鶯崎に何か変事があるに相違ないと言って、早速船を仕立てて出かけてその危難を救った。そんな事からこの宮家では、後々永く鮭の皮はけっして食わなかった。 一四〇 遠野の裏町に、こうあん様という医者があって、美しい一人の娘を持っていた。その娘はある日の夕方、家の軒に出て表通りを眺めていたが、そのまま神隠しになってついに行方が知れなかった。それから数年の後のことである。この家の勝手の流し前から、一尾の鮭が跳ね込んだことがあった。家ではこの魚を神隠しの娘の化身であろうといって、それ以来いっさい鮭は食わぬことにしている。今から七十年ばかり前の出来事であった。 一四一 宮家には開《あ》けぬ箱というものがあった。開けると眼がつぶれるという先祖以来の厳しい戒めがあったが、今の代の主人はおれは眼がつぶれてもよいからと言って、三重になっている箱をだんだんに開いて見た。そうすると中にはただ市松紋様のようなかたのある布《き》片《れ》が、一枚はいっていただけであったそうな。 一四二 金《かね》沢《さわ》村の佐々木松右衛門という家に、代々持ち伝えた月《がつ》山《さん》の名剣がある。俗にこれをつきやま月《がつ》山《さん》といっている。この家の主人ある時仙台に行き、宿銭不足したゆえにこの刀を代わりに置いて戻ったところ、後からその刀が赤い蛇になって帰って来たと言い伝えている。 一四三 小友村の松田留之助という人の家の先祖は、葛《か》西《さい》家《け》の浪人鈴木和泉という者で、当時きわめて富貴の家であった。ある時この家の主人、家重代の刀をさして、遠野町へ出ての帰りに、小友峠の休石に腰をかけて憩い、立ちしまにその刀を忘れて戻って来た。それに気がついて下人を取りにやると、峠の休石の上には見るも怖ろしい大蛇が蟠《わだかま》っていて、近よることもできぬので空しく帰り、その由を主人に告げた。それで主人が自身に行ってみると、蛇と見えたのは置き忘れた名刀であった。二代藤六行光の作であったという。 一四四 次には維新の頃の話であるが、遠野の藩士に大酒飲みで、酔うと処きらわずに寝てしまう某という者があった。ある時松崎村金《かな》沢《さ》に来て、猿が石川の岸近くに例のごとく酔い伏していたのを、所の者が悪戯をしようとして傍へ行くと、身のまわりに赤い蛇がいてそこらじゅうを匍いまわり、恐ろしくて近づくことができなかった。そのうちに侍が目を覚ますと、蛇はたちまち刀となって腰に佩《は》かれて行ったという話。この刀もよほどの名刀であったということである。 一四五 遠野町の相住某という人は、ある時笛吹峠で夜路に迷って、夜半になるまで山中を迷い歩いたが、道に出ることができなかった。いよいよ最後だと思い、小高い岩の上に登って総領から始めて順次にわが子の名を呼んで行った。そうしていちばん可愛がっていた末子の上に及んだ時のことであったろうというが、家で熟睡をしていたその子は、自分の躯の上へ父親が足の方から上がって来て、胸のあたりを両手で強く押しつけて、自分の名を呼んだように思って、驚いて目が覚めた。その晩はもう胸騒ぎがして眠られないので、父親の身の上を案じて夜を明かした。翌日父親は馬の鈴の音をたよりにようやく道に出ることができ、人に救われて無事に家に帰って来た。そうして昨夜の出来事を互いに語り合ったが、父子の話はまったく符節を合わせるようであったから、シルマシとはこのことであろうと人々は話し合ったという。 一四六 烏啼きのシルマシも否《いや》と言われぬものだという。先年、佐々木君の上隣りにある某家でもこのことがあった。この家の親類の老婆が谷川の橋から落ちて頓死した時、一羽の烏が死者のあった家の方角から、けたたましく鳴いて飛び来たり、ばさりと障子に翼を打ちつけて去った。その家では皆の者が驚いて、何事もなければよいがと話し合っているところへ、親類からこの老婆の死んだ報らせが来たということである。 一四七 蝋《ろう》燭《そく》の火の芯《しん》に青い焔がない時には火災変事などが起こるといわれている。先年遠野町の大火の時も、火元に近い某家の婦人が、その朝に限って神棚の御燈明に青い焔の見えないのを、不思議なこともあるものだと思っていたが、間もなく近所から出火してあの大事になった。 一四八 附馬牛村から伊勢参宮に立つ者があると、その年は凶作であるといい、これをはなはだ忌む。大正二年にもその事があったが、はたして凶作であったという。また松崎村から正月の田植え踊りが出ると餓死(凶作)があるといって嫌う。 一四九 遠野の某村の村長は青笹村の生まれで、若い頃はその村の役場に書記を勤めていた人である。その頃春の清潔法執行のために、巡査と共に各部落を廻っている時のことである。ある夜夢で村の誰かれが葦《あし》毛《げ》の馬の斃《たお》れたのを担いで来るのに出逢った。そうしてその翌日現実にも、葦毛の死馬を担いだ人々に行き逢ったが、その場所やその時の模様までが、夢で見たのとそっくりであった。あまりの不思議さに今でも時々この夢を思い出すと、その人の直話である。 一五〇 昔ある侍が物見山を腹の中へ呑み込んだ夢を見た。気にかかるので、大徳院で夢占いを引いてくるように、下男に言いつけて出してやった。下男は途中で某という侍に出逢ったが、どこへ行くのかと聞かれて、その訳を話すとその侍は、それはたいへんだ。物見山を呑んだら腹が裂けようと言って笑った。大徳院では、この夢はもう誰かに判断されているので、当方ではわからぬと言って、答えなかった。夢を見た侍はその後どういう事情でか、切腹して死んだそうな。 一五一 次は遠野町役場に勤めている某の語った実話である。この人の伯父が大病で長い間寝ていた頃のことであるが、ある夜家の土間に行きかかると、馬舎の口から火の魂がふらふらとはいって来て、土間の中を低くゆるやかに飛び廻った。某は怪しんで、箒《ほうき》をもってあっちこっちと追い廻した後に、これをかたわらにあり合わせた盥《たらい》の下に追い伏せた。しばらくすると外からにわかに人が来て、今伯父様が危篤だからすぐ来てくれと言う。某はあわてて土間に降りたが、ふとこの魂のことに気がつき、伏せて置いた盥を開けてから、出かけた。ほど近い伯父の家に行って見ると、病人は一時息を引き取ったが、たった今生き返ったのだというところであった。少し躯を動かし、薄目をあけて某の方を見ながら、俺が今こいつの家に行ったら、箒で俺を追い廻したあげくに、とうとう頭から盥をかぶせやがった。ああ苦しかったと言って溜息をした。某は恐ろしさに座にいたたまれなかったという。 一五二 遠野裏町のある家の子供が大病で死にきれた時のことだという。平常この子をかわいがっていた某という人が、ある日万福寺の墓地に行って墓の掃除をしていた。するとそこへその子供がよちよちとした足取りで遊びに来た。今頃来るはずはないが、と不思議に思って、何でこんな時に墓場なんかへやって来たのだ。早く家へ行け、と言って帰した。しかしあまり気がかりであったから寺の帰りにその子の家を見舞うと、病人は先刻息を引き取ったが、今ようやく生き返ったところだと言って、皆の者が大騒ぎの最中であったという。 一五三 日露戦争の当時は満洲の戦場では不思議なことばかりがあった。ロシアの俘《ふ》虜《りよ》の言葉に、日本兵のうち黒服を著ている者は射てば倒れたが、白服の兵隊はいくら射っても倒れなかったということを言っていたそうであるが、当時白服を著た日本兵などはおらぬはずであると、土淵村の似田貝福松という人は語っていた。 一五四 この似田貝という人が近衛連隊に入営していた時、同年兵に同じ土淵村から某仁太郎という者が来ていた。仁太郎は逆立ちが得意で夜昼凝《こ》っていたが、ある年の夏、六時の起床ラッパが鳴ると起き出でさまに台木にはしって行き、例のごとく逆立ちをしていた。そのうちに、どうしたはずみかに台木からまっさかさまに落ちて気絶したまま、午後の三時頃まで前後不覚であった。後で本人の語るには、木の上で逆立ちをしていた時、妙な調子に逆転したという記憶だけはあるが、その後のことはわからない。ただ平常暇があったら故郷に帰ってみたいと考えていたので、この転倒した瞬間にも郷里に帰ろうと思って、営内を大急ぎで馳け出したが、気ばかりあせって足が進まない。二歩三歩を一跳びにし、後には十歩二十歩を跳躍してはしっても、まだもどかしかったので、いっそ飛んで行こうと思い、地上五尺ばかりの高さを飛び翔って村に帰った。途中のことはよく覚えていないが、村の往来の上を飛んで行くと、ちょうど午《ひる》上《あが》りだったのであろうか、自分の妻と嫂《あによめ》とが家の前の小川で脛を出して足を洗っているのを見かけた。家に飛び入って常居の炉の横座に坐ると、母が長煙管《きせる》で煙草を喫いつつ笑顔を作って自分を見まもっていた。だが、せっかく帰宅して見ても、大したもてなしもない。やはり兵営に帰った方がよいと思いついて、また家を飛び出し、東京の兵営に戻って、自分の班室に馳け込んだと思う時、薬剤の匂いが鼻を打って目が覚めた。見れば軍医や看護卒、あるいは同僚の者たちが大勢で自分を取り巻き、気がついたか、しっかりせよなどといっているところであった。その後一週間ほどするうちに病気は本復したが、気絶している間に奥州の実家まで往復したことが気にかかってならない。あるいはこれがオマクということではないかと思い、その時の様子をこまごまと書いて家に送った。するとその手紙とは行き違いに家の方からも便りが来た。某日の昼頃に妻や嫂が川戸で足を洗っていると、そこへ白い服を着た仁太郎が飛ぶようにして帰って来て家に馳け入った。また母は常居の炉で煙草を喫んでいるところへ、白服の仁太郎が馳け込んで横座に坐ったと思うとたちまち見えなくなった。こんなことのあるのは何か変事の起こったためではないかと案じてよこした手紙であったという。なんでも日露戦争頃のことだそうである。 一五五 先年佐々木君の友人の母が病気にかかった時、医師がモルヒネの量を誤って注射したため、十時間近い間仮死の状態でいた。午後の九時頃に息が絶えて、五体も冷たくなったが、翌日の明け方には呼吸を吹き返し、それが奇跡のようであった。その間のことをみずから語って言うには、自分は体がひどくだるくて、歩く我慢もなかったが、向こうに美しい処があるように思われたので、早くそこへ行きつきたいと思い、松並木の広い道を急いで歩いていた。すると後の方からお前たちの呼ぶ声がするので、なんたら心ない人たちだと思ったが、だんだん呼び声が近づいて、とうとう耳の側に来て呼ぶので仕方なしに戻って来た。引き返すのがたいへんいやな気持がしたと。その人は今では達者になっている。 一五六 佐々木君の友人某という人が、ある時大病で息を引き取った時のことである。絵にある竜宮のような門が見えるので、大急ぎで走って行くと、門番らしい人がいて、どうしてもその内に入れてくれない。するとそこへつい近所の某という女を乗せた車が、非常な勢いで走って来て、門を通り抜けて行ってしまった。くやしがって見ているところを、皆の者に呼び返されて蘇生した。後で聞くと、車に乗って通った女は、その時刻に死んだのであったという。 一五七 俵田某という人は佐々木君の友人で、高等教育を受けた後、今は某校の教授をしている。この人は若い頃病気で発熱するたびにきまって美しい幻を見たそうである。高等学校に入学してから後も、そういうことを経験し、記憶に残っているだけでも、全部では六、七回はあるという。まず始めに大きな気体のような物が、丸い輪を描きつつ遠くからだんだんと静かに自分の方に進んで来る。そうしてそれが再び小さくなっていってしまいに消える。すると今度は、言葉ではなんとも言い表わせぬほど綺《き》麗《れい》な路がどこまでも遠く目の前に現われる。萱を編んだような物がその路に敷かれてあり、そこへ自分の十歳の時に亡くなった母が来て、二人が道連れになって行くうちに、美しい川の辺《ほとり》に出る。その川には輪形の橋が架かっているが、見たところそれは透明でもなく、また金や銀でできているのでもない。その輪の中を母はすうっと潜って、お前もそうして来いと言うように、向こう側からしきりに手招ぎをするが、自分にはどうしても行くことができない。そのうちにだんだんと本気に返って来るという。こうした経験のいちばん初めは、この人が子供の時に鍋倉山の坂路を駈《か》けくだる際、ひどく転んで気絶した時が最初だと言った。倒れたと思うと、絵にある竜宮のような綺麗な処が遠くに見えた。それを目がけて一生懸命に駈けて行くと、先に言ったような橋の前に行き当たり、死んだ母が向こう側でしきりに手招ぎをしたが、後から家の人たちに呼び戻されて気がついたのだという。同君が常に語った直話である。 一五八 死の国へ行く途には、川を渡るのだといわれている。これが世間でいう三途の河のことであるかどうかはわからぬが、いったんは死んだが、川に障《さ》えられて戻って来たという類の話がすくなくなかったようである。土淵村の瀬川繁治という若者は、急に腹痛を起こしてまぐれることがしばしばあったが、十年ほど前にもそんなふうになったことがあって、呼吸を吹き返した後に、ああおっかなかった。おれは今松原街道を急いで歩いて行って、立派な橋の上を通りかかったところが、唐鍬を持った小沼寅爺と駐在所の巡査とが二人でおれを遮って通さないので戻って来たと語ったそうである。この若者は今はすこぶる丈夫になっている。また佐々木君の曾祖父もある時にまぐれた。蘇生した後に語った話に、おれが今広い街道を歩いて行ったら大橋があって、その向こうに高い石垣を築いた立派な寺が見えた。その石垣の隙間隙間から、大勢の子供たちの顔が覗いていて、いっせいにおれの方を見たと。 一五九 これは佐々木君の友人某という人の妻が語った直話である。この人は初産の時に、産が重くて死にきれた。自分ではたいへん心持がさっぱりとしていて、どこかへ急いで行かねばならぬような気がした。よく憶えていないが、どこかの道をさっさと歩いて行くと、自分は広い明るい座敷の中にはいっていた。早く次の間に通ろうと思って、襖《ふすま》を開けにかかると、部屋の中には数え切れぬほど大勢の幼児が自分を取り巻いていて、行く手を塞いで通さない。しかし後に戻ろうとする時は、その児らもさっと両側に分かれて路を開けてくれる。こんなことを幾度か繰り返しているうちに、誰かが遠くから自分を呼んでいる声が微かに聞こえたので、いやいや後戻りをした。そうして気がついてみると、自分は近所の人に抱きかかえられており、皆は大騒ぎの最中であった。この時に最初に感じたものは、母親が酢の中に燠《おき》を入れて自分に嗅《か》がしていた烈しい匂いで、その後一月近くもの間、この匂いが鼻に沁み込んだままで痛かったという。産をする者には、この酢の匂いがいちばん効き目のあるものだそうで、それも造り酢でなければ効かぬといわれている。 一六〇 生者や死者の思いが凝《こ》って出て歩く姿が、幻になって人の目に見えるのをこの地方ではオマクといっている。佐々木君の幼少の頃、土淵村の光岸寺という寺が火災に遭った。字山口の慶次郎大工が頭《とう》梁《りよう》となって、その新築工事を進めていた時のことである。ある日四、五十人の大工たちが昼休みをしていると、そこへ十六、七の美しい娘が潜り戸を開けてはいって来た。その姿は居合わせた皆の目にはっきり見えた。この時慶次郎は、今のは、俺の隣の家の小松だが、傷寒で苦しんでいてここへ来るはずはないが、それではとうとう死ぬのかと言った。はたしてこの娘はその翌日に死んだという。その場に居合わせて娘の姿を見た一人、古屋敷徳平という人の話である。 一六一 青笹村生まれの農業技手で、菊池某という人が土淵村役場に勤めている。この人が先年の夏、盛岡の農事試験場に行っていた時のことだとかいった。ある日、あんまり暑かったので家のなかにいるのが大儀であったから、友達と二人北上川べりに出て、川端に腰を掛けて話をしていたが、ふと見ると川の流れの上に故郷の家の台所の有様がはっきりと現われ、そこに姉が子供を抱いている後姿がありありと写った。まもなくこのまぼろしは薄れて消えてしまったが、あまりの不思議さに驚いて、家に変事はなかったかと手紙を書いて出すと、その手紙と行き違いに電報が来て、姉の子が死んだという知らせがあった。 一六二 佐々木君の友人田尻正一郎という人が七、八歳の時、村の薬師神社の夜籠りの夜遅くなってから、父親といっしょに畑中の細道を家に帰って来ると、その途中、向こうから一人の男が来るのに行き逢った。この男は向笠のシゲ草がすっかり取れて骨ばかりになったのを冠っていた。少し足を止めて道を避けようとすると、先方から畑の中に片足踏み入れて体を斜めにして、道を譲って通した。行き過ぎてから父に、今の人は誰だろうと聞くと、誰も今通った者はないが、おれはまた何してお前が道に立ち止まりなどするのかと思っていたところだと、答えたという。 一六三 先年土淵村の村内に葬式があった夜のことである。権蔵という男が村の者と四、五人連れで念仏に行く途中、急にあっと言って道から小川を飛び越えた。どうしたのかと皆が尋ねると、俺は今黒いものに突きのめされた。いったいあれは誰だと言ったが、他の者の眼には何も見えなかったということである。 一六四 深山で小屋掛けをして泊っていると小屋のすぐ傍の森の中などで、大木が切り倒されるような物音の聞こえる場合がある。これをこの地方の人たちは、十人が十人まで聞いて知っている。初めは斧《おの》の音がかきん、かきん、かきんと聞こえ、いいくらいの時分になると、わり、わり、わりと木が倒れる音がして、その端《は》風《かぜ》が人のいる処にふわりと感ぜられるという。これを天狗ナメシともいって、翌日行って見ても、倒された木などは一本も見当たらない。またどどどん、どどどんと太鼓のような音が聞こえて来ることもある。狸《たぬき》の太鼓だともいえば、別に天狗の太鼓の音とも言っている。そんな音がすると、二、三日後には必ず山が荒れるということである。 一六五 綾織村の十七歳になる少年、先頃お二子山に遊びに行って、不思議なものが木登りをするところを見たといい、このことを家に帰って人に語ったが、間もなく死亡したということであった。 一六六 最近、宮守村の道者たちが附馬牛口から、早池峰山をかけた時のことである。頂上の竜が馬場で、風袋を背負った六、七人の大男が、山頂を南から北の方へ通り過ぎるのを見た。なんでもむやみと大きな風袋と人の姿とであったそうな。同じ道者たちがその戻り道で日が暮れて、道に踏み迷って困っていると、一つの光り物が一行の前方を飛んで道を照らし、その明かりでカラノ坊という辺まで降りることができた。そのうちに月が上って路が明るくなると、その光り物はいつの間にか消えてしまったということである。 一六七 十年ほど前に遠野の六日町であったかに、父と娘と二人で住んでいる者があった。父親の方が死ぬと、その葬式を出した日の晩から毎晩、死んだ父親が娘の処へ出て来て、いっしょにあべあべと言った。娘は恐ろしがって、親類の者や友達などに来てもらっていたが、それでも父が来て責めることは止まなかった。そうしてこれが元で、とうとう娘は病みついたので、夜になると町内の若者たちが部屋の内で刀を振り廻して警戒をした。すると父親は二階裏の張板に取りついて、娘の方を睨むようにして見ていたが、こんなことが一月ほど続くうちに、しまいには来なくなったという。 一六八 土淵村字栃内の渋川の某という男は、傷寒か何かの病気で若死したが、その葬式の晩から妻のところへ毎晩たずねて来て、とてもお前を残したのでは行く処へ行けぬからいっしょに連れに来たと言った。他の目には何も見えなかったが、その女房は毎夜十時頃になると、ほれあそこへ来たなどと苦しみ悶《もだ》えて、七日目にとうとう死んでしまったそうな。三十年近くも前の話である。 一六九 佐々木君の知人岩城某という人の祖母は、若い頃遠野の侍勘下氏に乳母奉公に上っていた。ある晩夜更けてから御子に乳を上げようと思ってエチコの傍へ行くと、年ごろ三十前後に見える美しい女が、エチコの中の子供をつげつげと見守っていた。驚いて隣室に寝ていた主人夫婦を呼び起こしたが、その時には女の姿は消えて見えなかったという。この家では二、三代前の主人が下婢に通じて子供を産ませたことがあったが、本妻の嫉《しつ》妬《と》がはげしくて、その女はとうとう毒殺されてしまった。女にはその前から夫があったが、この男までも奥方から憎まれて、女房の代わりだからと言って無慈悲にこき使われたという。岩城君の祖母が見たのは、たぶん殺されたこの下婢が恨んで出て来た幽霊であろうと噂せられた。またある時などは、この人が雨戸を締めに行くと、戸袋の側に例の女が坐っていたこともあったそうである。 一七〇 ノリコシという化け物は影法師のようなものだそうな。最初は見る人の目の前に小さな坊主頭となって現われるが、はっきりしないのでよく見ると、そのたびにめきめきと丈《たけ》がのびて、ついに見上げるまでに大きくなるのだそうである。だからノリコシが現われた時には、最初に頭の方から見始めて、だんだんに下へ見下してゆけば消えてしまうものだといわれている。土淵村の権蔵という鍛冶屋が師匠の所へ徒弟に行っていた頃、ある夜遅くよそから帰って来ると、家の中では師匠の女房が燈を明るくともして縫物をしている様子であった。それを障子の外で一人の男が隙見をしている。誰であろうかと近寄って行くと、その男はだんだんに後ずさりをして、雨打ち石のあたりまで退いた。そうして急に丈がするすると高くなり、とうとう屋根を乗り越して、蔭の方へ消え去ったという。 一七一 この権蔵は川狩りの巧者で、夏になると本職の鍛冶には身が入らず、魚釣りに夢中であった。ある時山川へいわな釣りに行き、ハキゴにいっぱい釣って、山路を戻って来た。村の入口の塚のある辺まで来ると、草《くさ》叢《むら》の中に小坊主が立っているので、誰であろうと思って見ると、するすると大きくなって雲を通すように高い大入道となった。驚いて家に逃げ帰ったそうな。 一七二 遠野新町の紺《こん》屋《や》の女房が、下組町の親戚へ病気見舞いに行こうと思って、夜の九時頃に下横町の角まで行くと、そこに一丈余りもある大入道が立っていた。胆をつぶして逃げ出すと、その大入道が後から袖叩きをして追いかけて来た。息も絶えるように走って、六日町の綾文という家の前まで来て、袖叩きの音が聞こえないのに気がついたのでもう大丈夫であろうと思い、後を振り返って見ると、この大入道は綾文の家の三階の屋根よりも高くなって、自分のすぐ後に立っていた。また根《こん》かぎりに走って、やっと親戚の家まで行きついたが、その時あまり走ったので、この女房は脛が腫《は》れ上がって、死ぬまでそれが癒らなかったそうである。明治初年頃にあった話だという。 一七三 佐々木君の友人中館某君の家は、祖父の代まで遠野の殿様の一の家老で、今の御城のいちばん高い処に住んでいた。ある冬の夜、中館君の祖父が御本丸から帰宅すると、どこからどこまで寸分違わぬ姿をした二人の奥方が、玄関へ出迎えに立っておった。いくら見比べてもいずれが本当の奥方か見分けがつかなかったが、家来の者の機転で、そこへ大きな飼犬を連れて来ると、一人の方の奥方は狼狽して逃げ去ったそうな。 一七四 遠野の家中の是川右平という人の家で、冬のある晩に主人は子供を連れて櫓《やぐら》下《した》の芝居を見に行き、夫人はただ一人炉傍で縫物をしながら留守をしていると、その側にいた虎猫が突然人声を出して、奥様お退屈でしょう。今旦那様たちが聞いてござる浄瑠璃を語って聴かせますべといって、声も朗らかに一くさり語った。そうしてこの事を誰にも話すなと念を押して、主人の帰って来た時には、なにくわぬ顔をしてネムカケ(居睡り)をしていたという。成就院という寺の和尚は是川氏の碁友だちであった。ある時やって来て話をしているうちに、主人の側にネムカケをしている虎猫を見て、あやこの猫だ。先だっての月夜の晩に、おら方《ほう》の庭へ一疋の狐が来て、しきりに踊りを踊りながらどうしても虎子どのが来なけりゃ踊りにならぬと独り言をいっていた。そこへ赤い手拭をかぶって虎猫が一疋、出かけて来て二疋で踊った。しまいには今夜はどうも調子がなじまぬ。これで止めべといってどこへか行ったが、それが確かにこの虎猫であったと話した。その夜和尚が帰った後で、奥様は先夜の浄瑠璃の話を主人にしたそうである。そうしたらその翌朝、いつまでも起きて来ぬので主人が不審に思って見ると、その奥様は咽《のど》笛《ぶえ》を咬《か》み切られて死んでいた。虎猫もまたその時から、出て行って帰って来なかったという。今から八十年余りも前の話である。 一七五 明治になってからも、町にはまたこんな事件があった。下組町の箱石某という家の娘が、他家に縁づいて子を産んで死んだので、かわいそうに思ってその子を連れて来て育てていた。ある晩いつものごとく祖父が抱いて寝たのが、朝起きて見ると、懐に見えず、あたりを見廻すと座敷の隅に死んでいた。よくよく見ると家に飼っている虎猫に、喰い殺されていたのであった。それを警察へ連れて行って殺してもらおうとしたが、どこへ逃げたか行方知れずになった。後に愛宕山で見かけたという者もあったが、もちろん二度とは姿を見せなかった。 一七六 青笹村の猫川の主は猫だそうな。洪水の時に、この川の水が高みへ打ち上がって、たいへんな害をすることがあるのは、元来猫は好んで高あがりをするものであるからだといわれている。 一七七 小槌川の明神淵であったかと思うが、その近所に毎晩大牛が出て、畑の麦を食ってならなかった。畠主が鉄砲を打ちかけ、打ちかけ追って行くと、その牛は淵の中にざんぶりと水音を立ててはいったまま、見えなくなったという。 一七八 橋野の沢檜川の川下には、五郎兵衛淵という深い淵があった。昔この淵の近くの大家の人が、馬を冷やしにそこへ行って、馬ばかり置いてちょっと家に帰っているうちに、淵の河童《かつぱ》が馬を引き込もうとして、自分の腰に手綱を結えつけて引っ張った。馬はびっくりしてその河童を引きずったまま、厩にはいり、河童はしかたがないので馬《うま》槽《ふね》の下に隠れていた。家の人がヤダ(飼料)をやろうとして馬槽をひっくりかえすと、中に河童がいて大いにあやまった。これからはけっしてもうこんな悪戯をせぬから許してくださいといって詫び証文を入れて淵へ帰って行ったそうだ。その証文は今でもその大家の家にあるという。 一七九 遠野の下組町の市平という親爺、ある時綾織村字砂《いさ》子《ご》沢の山に栗拾いに行って、一生懸命になって拾っているうちに、たまらなく睡くなったので背伸びをして見ると、栗の木から大きな蛇が、下を睨《にら》めていたという。たまげて逃げて帰って来たそうである。 一八〇 数年前栗橋村分《ぶん》の長根という部落でヒラクゾの某という若い娘が、畑の草を取っていながら、何事か嬉しそうに独り言を言って笑っているので、いっしょに行った者が気をつけて見ていると何か柴のような物が娘の内股の辺で頭を突き上げて動いている。それは山かがしであったから、人を呼んで打ち殺したという。 一八一 家のあたりに出る蛇は殺してはならぬ。それはその家の先祖の人だからという、先年土淵村林崎の柳田某という人、自分の家の川《か》戸《ど》にいた山かがしを殺したところ、祟《たた》られて子供と自分がひどく病んだ。巫女《いたこ》に聞いてもらうとおれはお前の家の祖父だ。家に何事もなければよいがと思って、案じて家の方を眺めているところをお前に殺されたといった。詫びをしてやっと許してもらった。また佐々木君の近所のある家でも、川戸で蛇を殺してから病気になった。物識りに聞くとおれはお前の家の母親だが云々といった。こういう実例はまだいくらでもある。 一八二 上郷村佐比内河原の鈴木某という男が、片沢という所へ朝草刈りに行った。刈り終わって家に帰って、馬に草をやろうとして見ると、刈草の中に胴ばかりの蛇がうごめいていた。次の朝もまた片沢へ行くと、馬沓ほどもある胴のない蛇の頭が眼を皿のようにして睨んでいた。これはきっと昨夜の蛇と同じ蛇だろうと思い、大いに畏れて、以後この沢にはけっしてはいらぬし、祠も建てて祀るから、どうか祟らないでけろと言って帰った。それで祟りもなかったが、何代か後の喜代人という者がこの言い伝えをばかにして片沢へ草刈りにはいったところが、頭ばかりの蛇が草の間に藁《わら》打《うち》槌《づち》のようになっていた。それを見て帰ると、病みついて死んだと伝えられており、今もこの片沢には草刈りにはいらない。 一八三 土淵村字栃内琴畑の者が、川魚釣りに行って小《こ》烏《がら》瀬《せ》川の奥の淵で釣糸を垂れていると、時々蜘蛛《くも》の巣が顔にかかるので、そのつど顔から取ってかたわらの切株に掛けておいた。その日はいつもになく、よくいわながついたが、もう日暮れ時になったので、惜しいけれども帰ろうと思っている折柄、突然かたわらにあったこの根株が根こそげ、ばいらと淵の中に落ち込んだので、びっくりした。家に帰ってからハキゴの中を見ると、今まで魚と思っていたのは皆柳の葉であったそうな。 一八四 佐々木君の隣家の三五助爺、オマダの沼という処へ行って釣りをしていると、これも青い小蜘蛛が時々出て来ては顔に巣をかけてうるさかったから、その糸を傍の木の根に掛けておいた。すると突然、その根株が倒れて沼に落ち込んだという。また小友村四十八滝のうちの一の淵でも、土淵村の人が釣りに行っていたら、同じような蜘蛛の糸の怪があったそうである。よく聞く話であるが、村の人たちはこうしたことも堅く信じている。 一八五 旗屋の縫が早池峰山へ狩りに行って泊っていると、大きな青入道が来て、縫に智恵較べをすべえと言った。縫は度胸の据った男であったから、よかろうと答えて、まずその青入道に、いくらでもお前が小さくなるによいだけ、小さくなってみろと言った。すると青入道は見ている間に小さくなったから、縫はそれを腰の火打ち箱に入れておいた。翌朝になって火打ち箱を開けてみたら、小さな青蜘蛛が中にはいっていたそうな。 一八六 これは宮古の在の話であるが、山の中に五軒ほどある部落に婚礼のある晩、大屋の旦那が宮古へ行って、まだ帰って来ぬために式を挙げることができず、迎えに迎えを出して夜の更けるまで待ちあぐんでいたところ、不意に家に飼っている二疋の犬が吠え立てたと思うと、戸を蹴破るようにしてその大屋の旦那様がはいって来た。すぐと膳部を配り盃を廻し始めると、旦那はまるで何かのように大急ぎで御馳走を乱し食うて、おれはこうしてはいられない。明日はまた宮古に山林の取引きがあるから、これから行くと言って立ちかけた。まだ式も済まぬ前といい、いかにも先刻からの様子が変だと思っていた人々は、互いに目くばせをしてそんだらばと、表へ送り出すやいなや犬をけしかけた。すると旦那は驚いて床下に逃げ込む。それやというので若者たちは床板をへがし、近所の犬も連れて来てせがすと、とうとう犬どもに咬み殺されて引きずり出された。見れば大きな狸《たぬき》であった。その騒ぎのうちに本物の大屋の旦那様も帰って来て、めでたく婚礼は済んだという。今から二十年ほど前の話である。 一八七 上郷村字板沢の曹源寺の後の山に、貉《むじな》堂《どう》という御堂があった。昔この寺が荒れて住持もなかった頃、一人の旅僧が村に来て、この近くの清水市助という家に泊った。そこへ村の人が話を聞きに集まって、いろいろの物語をするついでに、村の空寺に化物が出るので、住持も居ついてくれず困っているという話をすると、それなら拙僧が行ってみようと、次の日の晩に寺に行くと、誰もおらぬといったのに寺男のような身なりの者が一人寝ていた。変に思ってその夜は引き返し、翌晩また行ってみたがやはり同じ男が寝ている。こやつこそ化物と、かっと大きな眼を開いて睨《ね》めつけると、寺男も起き直って見破られたから致し方がない。何を隠そう私はこの寺に久しく住み、七代の住僧を食い殺した貉だと言った。それから釈迦如来の檀特山の説法の有様を現じて見せたとか、寺のまわりを一面の湖水にして見せたとかいう話もあり、結局本堂の屋根の上から、九つに切れて落ちて来て、それ以来寺には何事もなく、今日まで続いて栄えているという話になっている。山号を滴水山というのも、その貉の変《へん》化《げ》と関係があるとのように語り伝えている。 一八八 安政の頃というが、遠野の裏町に木下鵬石という医師があった。ある夜家族の者と大地震の話をしていると、更けてから一人の男が来て、自分は遊《ゆ》田《だ》家の使いの者だが、急病人ができたから来ていただきたいと言うので、早速その病人を見舞って、薬を置いて帰ろうとすると、その家の老人から、これは今晩の謝儀だと言って一封の金を手渡された。翌朝鵬石が再び遊田家の病人を訪ねると、同家では意外の顔をして、そんな覚えはないと言い、病気のはずの人も達者であった。不思議に思って家に帰り、昨夜の金包みを解いてみると、中からは一朱金二枚が現われた。その病人はおそらく懸《かけ》ノ稲荷様であったろうと、人々は評判したそうである。 一八九 上郷村佐比内の佐々木某という家の婆様の話である。以前遠野の一日市の甚右衛門という人が、この村の上にある鉱山の奉行をしていた頃、ちょうど家の後の山の洞で、天気のよい日であったにもかかわらず、にわかに天尊様が暗くなって、一足もあるけなくなってしまった。そこで甚右衛門は土にひざまずき眼をつぶって、これはきっと馬木ノ内《つ》の稲荷様の仕《し》業《わざ》であろう。どうぞ明るくしてください。明るくしてくだされたら御位を取って祀りますと言って眼を開いてみると、元の晴天の青空になっていた。それで約束通り位を取って祭ったのが、今の馬木ノ内の稲荷社であったという。 一九〇 昔土淵村田尻の厚《あつ》楽《らく》という家で、主人が死んで後毎晩のように、女房の寝室の窓の外に死んだ夫が来て、お前を残しておいてはとても成仏ができぬから、おれといっしょにあべと言った。家族は怪しく思ってそっと家の裏にまわって見ると、大きな狐が来てひたりと窓に身をすりつけていた。それを後から近よって不意に斧をもって叩き殺したら、それからはもう亡者は来なかったという。 一九一 附馬牛村字張《はる》山《やま》の某という家では、娘が死んでから毎夜座敷に来てならなかった。初めは影のようなものが障子に映ると、座敷に寝ている人々はいっせいにうなされる。それが毎晩続くのでたぶん狐の仕業であろうということになり、村の若い者が来て張り番をしていたが、やはり淋しくてその時刻になると、皆たまらなくなって逃げ帰った。隣に住んでいる兄が、あまりにも不思議でもあるし、また真実死んだ妹の幽霊なら逢ってもみたいと思ってある夜物陰に忍んで様子を窺うていると、はたして奥座敷の床の間つきの障子に、さっと影が映った。そら来たと思ってよく見ると、これも一疋の大狐が障子にくっついて内の様子を見ているのであった。そこにあった藁打槌を手に持ち、縁の下を匍《は》って行っていきなりその狐の背を撲《う》ちのめすと、殺す気であったが狐は逃げ出した。それでもよほど痛かったと見えて、びっこを引き、歩みもよほど遅かった。追いかけてみたが後の山にはいって見えなくなり、それに夜だからあきらめて帰って来た。その後幽霊は来ずまたこの男にも祟りもなかったそうである。 一九二 遠野六日町の鍛冶職松本三右衛門という人の家に夜になるとどこからともなくがらがらと石が降ってくる。それが評判になって町じゅうの者は見物にやって来たが、見物人のいるうちは何の変わった事もなくて、帰ってしまうとまた降った。毎朝石を表に出して、昨夜もこんなに降りましたと、見せるほどであった。ちょうどその頃に、元町の小笠原という家の赤犬が、御城下で一匹のひじょうに大きな狐を捕った。尻尾が二本に岐《わか》れていずれも半分以上も白くなっている古狐であった。この狐が捕られてから、松本の家に石の降ることは止んだという。それで今でも遠野ではこの家のことを石こ鍛冶と呼んでいる。 一九三 遠野の城山の下の多賀神社の狐が、市日などには魚を買って帰る人を騙《だま》して、持っている魚をよく取った。いつも騙される綾織村の某、ある時塩を片手につかんでここを通ると、家に留守をしているはずの婆様が、あまり遅いから迎えに来た。どれ魚をよこしもせ。おら持って行くからと手を出した。その手をぐっと引いてうむを言わず、口に塩をへし込んで帰って来た。その次にそこを通ると、山の上で狐が塩へしり、塩へしりといったそうである。 一九四 遠野の六日町の外川某の祖父は、号を仕候といって画を善く描く老人であった。毎朝散歩をするのが好きであったが、ある日早くこの多賀神社の前を通ると、大きな下《げ》駄《た》が路に落ちていた。老人はここに悪い狐がいることを知っているので、すぐにははあと思った。そうしてそんなめぐせえ下駄なんかはいらぬが、これが大きな筆だったらなあといったら、たちまちその下駄がみごとな筆になったそうである。老人は、ああ立派だ。こんな筆で画をかいたらなあといって、さっさとそこを去ったという。またある朝も同じ人がここを通ると、社の前の老松が大きな立派な筆になっていたという。近年までもその松はあった。この神社の鳥居脇には一本の五葉の松の古木があったが、これも時々美しいお姫様に化けるという話があった。 一九五 遠野の六日町に宇助河童《かつぱ》という男がいた。川仕事が人並みはずれて達者なところから、河童というあだ名をつけられたのである。ある夏の夜、愛宕下の夜釣りに行くと大漁であった。暑気が烈しいからせっかく取った魚を腐らせてはならぬと思って、傍に焚《たき》火《び》をして魚を炙《あぶ》りながら糸を垂れていた。すると不意に川の中に、蛇目傘をさしたいい女が現われた。宇助はこれを見てあざ笑って、何が狐のやつ、お前らごときに騙されるものかと言って石を投げつけると、女の姿は消え失せる。それから間もなく川原に男が現われて、叢でさくさくと草刈りを始める。またかと言って宇助が石を投げると、これもそのまま消えてしまった。ああいい気味だとひとりで笑っていると、はるか川向こうの角《かど》鼻《ばな》という処の下がぼうと明るくなって、あまたの提《ちよう》灯《ちん》がぞろりと並んで行ったり来たりした。あれや、今度はあんな方へ行って、あんな馬鹿真似をしている。だが珍しいものだ、あれこそ狐の嫁取りというものだろうと感心して見ていたが、ふと気がついてああそうだと焚火の魚を見ると、早皆取られてしまって一つもなかった。おれもとうとう三度目に騙されたと、その後よく人に語ったそうである。 一九六 遠野の大慈寺の縁の下には狐が巣をつくっていた。綾織村の敬右衛門という人が、ある時酒《しゆ》肴《こう》を台の上に載せてそこを通ったところが、ちょうど狐どもが嫁取りをしていた。あまりの面白さに立って見ていたが、やがて式も終わったので、さあ行こうとして見たら、もう台の肴《さかな》はなくなっていたそうな。 一九七 佐々木君の友人の一人が遠野の中学校の生徒の時、春の日の午後に町へ出て牛肉を買い、竹の皮包みを下げて鍋倉山の麓《ふもと》、中学校の裏手の細道に来かかると、路傍にかわいい一疋の小兎がぴょんぴょんと跳ねていた。不思議に思って立ち止まって見ると、しきりに自分の下げている包みへ手をのばすので、まずその包みをしかと懐へ入れてから兎を見ていた。すると兎はやがて後足で立ち上がり、またいつの間にか小娘のする赤い前垂をしめ、白い手拭をかぶって踊りを踊っている。それがあたりの樹の枝の上に乗っているように見えたり、またそうかと思うとすぐ眼の前にいるように見えたりしたそうである。そうしてしまいには猫のようになって、だんだんと遠くに行って姿が消えてしまった。これも狐であったろうと言っている。 一九八 昔小友村に狼《おおかみ》というあだ名の人があった。駄賃つけが渡世であるいていたが、ある日同村団子石の箒松という処まで来ると、向こうから士《さむらい》が一人来て、引っ掛け馬をしてあるくのはけしからぬ。手討ちにしなければならぬと威《い》張《ば》るので、平身低頭してあやまっていたが、そのうちどうかして居睡りをしてしまった。ふっと気がついて見ると団子石の上から一匹の狐が馬の荷へ上って行くところであったから、ひどくごせを焼いてどなりつけてぼったくった。そして魚は一尾も取られなかったそうである。 一九九 これはつい一両年前の話。土淵村の長左衛門という者が、琴畑川に釣りに行っていると、川ばたの路を見知り越しの女が一人通る。それは琴畑から下村の方に、嫁に行っている女であった。言葉をかけると笑うから、つい好い気になって女のもとに手を出したが、女はえせほほと笑ってはちょいと逃げ、えせほほと笑ってはちょいと退いた。そうして山の中を三日三夜、その女の跡を追うてあるいたという。村でも高山のサズミ山という処の頂上に出て、眼の下に村屋を眺めた時に始めて気がついた。するとその女もだんだんと狐になって、向こうの萱山の方へ走って行った。それからぐたぐたに疲れきって、家に帰ってしばらく病んだと本人は言っている。 二〇〇 これは浜の方の話であるが、大槌町の字安《あん》堵《ど》という部落の若者が、夜分用事があって町へ行くと、大槌川の橋の袂に婆様が一人立っていて、まことに申しかねるが私の娘が病気をしているのでお願いする。町の薬屋で何々という薬を買って来てくだされといった。たぶんどこかここにいる乞食でもあろうと思って、見かけたことのない婆様だが、嫌な顔もせずに承知してやった。そうして薬を買い求めてこの橋のところまで来ると、婆様は出て待っていて非常に悦び、私の家はついこの近くだからぜひ寄って行ってくれという。若者もどういう住居をしているものか、見たいようにも思ってついて行くと、岩と岩との間をはいって行って、中にはかなり広い室があり、なかなか小綺麗にして畳なども敷いてあり、諸道具も貧しいながら一通りは揃っていた。病んでいるという娘は片隅に寝ていたが、若者がはいって行くと静かに起きて挨拶をした。その様子がなんとも言われぬほどなよなよとして、色は青いが眼の涼しい、美しい小柄な女であった。その晩はいろいろもてなされて楽しく遊んで帰って来たが、それからいかにしてもその娘のことが忘れられぬようになって、毎夜そこへ通うていたが、情が深くなるとともに若者は半病人のごとくになってしまった。朋輩がそれに気がついていろいろ尋ねるので、実は乞食の娘とねんごろになったことを話すと、そんだらどんな女だか見届けた上で、何とでもしてやるからおれをそこへ連れていけというので、若者もぜひなくその友だちを二、三人、岩穴へ連れて行った。親子の者はさも困ったようではあったが、それでも茶や菓子を出してもてなした。一人の友だちはどうもこの家の様子が変なので、ひそかにその菓子を懐に入れて持って来てみたが、それはやはり本当の菓子であったという。ところがその次とかの晩に行ってみると、娘は若者に向かって身の素性を明かした。私たちは実は人間ではない。今まで明神様の境内に住んでいた狐だが、父親が先年人に殺されてから、親子二人だけでこんな暮らしをしている。これを聞いたらさだめてお前さんもあきれて愛想をつかすであろうと言って泣いた。しかし男はもうその時にはたとえ女が人間でなかろうとも、思い切ることはできないほどになっていたのだが、女のいうには私もこうしていると体が悪くなるばかりだし、お前さんも今にいやな思いをすることがきっとたびたびあろうから、かえって今のうちに別れた方がよいと言って、無理に若者を室から押し出したという。それから後も忘れることが何としてもできぬので、何べんとなく岩のある処へ行ってみるけれども、もうその岩屋の入口がわからなくなってしまった。それであの娘も死んだであろうと言って、若者が歎いているということである。この話をした人はこれをつい近年あった事のように言った。その男は毎度遠野の方へも来る兵隊上がりの者だといっていた。 二〇一 小友村鮎貝の某という者、ある日遠野の町へ出る途中で、見知らぬ旅人と道連れになった。その旅人はそちこちの家を指ざして、この家はどういう病人があるとか、あの家にはこんな事があるとかいろいろの事を言うのが、皆自分のかねて知っていることによく合っているので、某は心ひそかに驚いて、おまえ様はこの路は始めてだというのに、どうしてそんな事までわかりますかと聞くと、なにわけはない、おれはこういう物を持っているからと言って、ごく小さな白い狐を袂《たもと》から取り出して見せた。そうしてこれさえあれば誰でも俺のように何事でもわかるし、また思うことが何でもかなうというので、某は欲しくてたまらず、いくらかの金を出してその小狐の雌雄を買い取り、飼い方使い方をくわしく教えてもらったという。それからこの人は恐ろしくよく当たる八卦置きになった。始めのうちは隣近所に行って、今日はこっちのトト(父)は浜からこれこれの魚を持って来る。浜での価はいくらだから、持って来て幾らに売れば儲かるというようなことを言っていたが、それが的中するのでおいおいに信用する人が多く、自分もまたたちまちの中に村で指折られる金持になった。しかしどうしたものか何年かの後には、その八卦が次第に当たらなくなり、家もいつの間にか元通りの貧乏になって、末にはどこかの往来でのたれ死にをしたということである。飯《い》綱《づな》は皆こういうもので、その術には年限のようなものがあって、死ぬ時にはやはり元の有様に戻ってしまうものだと伝えられている。これと似寄りの話はまだこの他にも方々にある。 二〇二 この飯綱使いはどこでも近年になってはいって来た者のようにいっている。土淵村でも某という者が、やはり旅人から飯綱の種狐をもらい受けた。そして表面は法《ほつ》華《け》の行者となって、術を行なうと不思議なほど当たった。その評判が海岸地方まで通って、ある年大漁の祈祷に頼まれて行った。浜の浪打ち際に舞台をからくり、その上に登って三日三晩の祈祷をしたところが、魚がさっぱり寄ってこない。気の荒い浜の衆はなんだこの遠野の山師行者といって、彼を引担いで海へ投げ込んだが、ようやくのことに波に打ち上げられて、岩へ登って夜にまぎれてそっと帰って来た。それから某は腹が立ち、またもう飯綱がいやになって、その種狐をことごとく懐中に入れ、白の饅《まん》頭《じゆう》笠《がさ》をかぶって、家の後の小烏瀬川の深みに行き、だんだんと体を水の中に沈めた。小狐どもは苦しがって、皆懐から出て、笠の上に登ってしまう。その時静かに笠の紐《ひも》を解くと、狐は笠とともに自然に川下へ流れてしまった。飯綱を離すにはこうするよりほかに、術はないものと伝えられている。 二〇三 遠野の元町の和田という家に、勇吉という下男が上郷村から来ていた。ある日生家に帰ろうとして、町はずれの鶯崎にさしかかると、土橋の上に一疋の狐がいて、夢中になって川を覗《のぞ》き込んでいる。忍び足をして静かにその傍に近づき、不意にわっと言って驚かしたら、狐は高く跳ね上がり、川の中に飛びこんで逃げて行った。勇吉は独り笑いをしながらあるいていると、にわかに日が暮れて路がまっくらになる。これは不思議だ、まだ日の暮れるには早すぎる。これは気をつけなくてはとんだ目に遭うものだと思って、路傍の草の上に腰をおろして休んでいた。そうするとそこへ人が通りかかって、お前は何をしている。狐にたぶらかされているのではないか。さあ俺といっしょにあべと言う。ほんとにと思ってその人についてあるいていると、なんだか体じゅうが妙につめたい。と思って見るといつの間にか、自分は川の中にはいってびしょ濡れに濡れておりおまけに懐には馬の糞《ふん》が入れてあって、同行の人はもういなかったという。 二〇四 これは大正十年十一月十三日の岩手毎日新聞に出ていた話である。小国のさきの和《わ》井《い》内《ない》という部落の奥に、鉱泉の涌《わ》く処があって、石館忠吉という六十七歳の老人が湯《ゆ》守《もり》をしていた。去る七日の夜のことと書いてある。夜中に戸を叩く者があるので起き出て見ると、大の男が六人手に手に猟銃を持ち、筒口を忠吉に向けて三百円出せ、出さぬと命を取るぞと脅《おど》かすので、驚いて持合せの三十五円六十八銭入りの財布を差し出したが、こればかりでは足らぬ。ぜひとも三百円、ないというなら打ち殺すと言って、六人の男が今や引き金を引こうとするので、夢中で人殺しと叫びつつ和井内の部落まで、こけつまろびつ走って来た。村の人たちはそれはたいへんだと、駐在巡査も消防手も、青年団員も一つになって、多人数でかけつけて見ると、すでに六人の強盗はいなかったが、不思議なことには先刻爺が渡したはずの財布が、床《とこ》の上にそのまま落ちている。これはおかしいと小屋の中を見まわすと、貯えてあった魚類や飯がさんざんに食い散らされ、そこら一面に狐の足跡だらけであった。一同さては忠吉爺は化かされたのだなと、大笑いになって引き取ったとある。この老人は四、五日前に、近所の狐穴を生松葉でいぶして、一頭の狐を捕り、皮を売ったことがあるから、さだめてその眷属が仕返しに来たものであろうと、村ではもっぱら話し合っていたと出ている。 二〇五 遠野町上通しの菊池伊勢蔵という大工が土淵村の似《に》田《た》貝《かい》へ土蔵を建てに来ていて、棟上げの祝いの日町へ帰って行く途中、八幡山を通る時に、酔っていたものだからこんなことを言った。昔からここには、りこうな狐がいるということだが、本当にいるなら鳴いて聞かせろざい。もしいるならこの魚をやると言って、祝いの肴《さかな》を振りまわした。するとすぐ路傍の林の中で、じゃぐえん、じゃぐえんと狐が三声鳴いた。伊勢蔵はああいたいた。だがこの肴はやらぬから、お前たちの腕で俺から取って見ろと言い捨てて通り過ぎた。その折同行していた政吉爺などは、そんな事をいうものじゃないと制したけれども、なに、狐ごときに騙されてやってたまるものか。これでも持って帰れば家内じゅうで一かたき食べられるなど、大言して止まなかった。それが今の八幡宮の鳥居近くまで来た時、ちょっと小用を足すから手を放してくれというので、朋輩たちももう里になったからよかろうと思って、今まで控えていた手を放すと、よろよろと路傍の畠にはいって行ったまま、いつまでたっても出て来ない。何だ少しおかしいぞとその跡から行って見ると、祝いに著た袴羽織のままで、溜池の中へ突き落とされて半死半生になっていたという。これは同行者の政吉爺の直話である。 二〇六 この政吉が小友村にいた若い時のことである。ある年の正月三日に小友の柴橋という家から、山室の自分のいた家まで、帰って来る途中で暗くなった。すると前に立って女が一人、背中の子供をゆすぶりながら行く。その子供が時々泣く。日頃知っている女のようにも思ったが、それが子供をおぶいながら、こちらがいくら急ぎ足であるいても、どうしても追いつけぬのでこれはおかしいと感じた。そのうちに自分もかけ出して追いつこうとすると、つと路をはずして田圃路を、背中の子供を泣かせながら、いっこう平気であるいている。路のないところをしかも雪の上なので、ははあこれはてっきりおこんだと思い当たったのであった。やがて自分の部落になり家にはいって行こうとすると、もうその女がこちらより先に自分の家へはいって行くのであった。家には大勢の若者が集まって、賑やかに遊んでいた。政吉はそこへいきなり飛び込んで、おい今女が来なかったかときくと、皆して笑って狐にばかされて来たなと言った。そこで試みに障子を開けて見ると、はたして風呂場の前に一疋の狐が、憎らしくもちゃんと坐って家の方を見つめている。よしきたと猟銃を取り出して、玉をこめて火縄をつけると、どうしたものか火が消えて火薬に火が移らない。そこで考えてそっと友だちの一人を呼んで、その鉄砲を持たせてそこにいて狙っていてもらい、自分は今一挺の鉄砲を出して厩口の方へまわり、狐の横顔を目がけて一発で仕とめてしまった。たいへんに大きな狐であったという。その晩はおかげでみんなと狐汁をして食ったという話。この爺にはまだいろいろの狐の話があるが、小友で狐に騙されて塩鮭三本投げたという話など、だいたい他でもいう話と同じようであった。 二〇七 橋野村の某という者が、二人づれで初《はじ》神《かみ》の山にはいって、炭焼きをしていたことがある。その一人は村に女を持っていて、炭《すみ》竈《がま》でも始終その話をして自慢していた。ところがある晩その女が、縞《しま》の四幅の風呂敷に、豆《とう》腐《ふ》を包んで、訪ねて来て炭焼き小屋に泊った。二人の男のまん中に女は寝た。夜中に馴染の男が眠ってしまってから、傍の男はそっと女の身に手を触れてみると、びっくりするほどの毛もそであった。しばらく様子をさげしんで(心を留めて)いたが、思い切って起き出し、鉈《なた》を持って来てその女を斬り殺した。女は殺されながら某あんこ、何しやんすと言って息絶えた。何の意趣あっておれの女を殺したと、もちろん非常に一方の若者は憤って、すぐにも山を下って訴えて出るように言ったが、いやまず明日の昼まで待ってみよ。この女はけっして人間でないからと言ったものの、いつまでたっても女の姿でいるゆえに、ようやく不安になって気をもんでいるうちに、夜があけて朝日の光がさして来た。それでもまだ人間の女でいるので、いよいよこれから訴えに行くというのを、もう少し少しと言って引き留めていたが、はたしてだんだんと死んだ者の面相が変わってきて、しまいに古狐の姿を表わしたそうである。今さらのごとく両人の者も驚いて、共々里に下ってまず風呂敷の持ち主を尋ねてみると、昨晩某という家に婚礼があって、土地の習いとして豆腐を持って行くことであったが、ある人の持っていた豆腐が風呂敷のまま紛失して、どうしたことかと思っていた。それがまさしく狐が山に持って行ったものであったという。今から五、六十年も前の出来事だといっている。 二〇八 つい近年の事である。小国村で二十二になる男と十八歳の若者と、二人づれで岩《いわ》魚《な》を釣りに山にはいった。その川の河《かつ》内《ち》には牛牧場の小屋があるから、そこに泊るつもりにしてゆるゆると魚を釣り、夕方にその小屋についてみると、かねて知り合いの監視人は里に下っていなかった。はあこの小屋には近頃性《しよう》悪《わる》の狐が出て、悪戯をして困るという話をしていたが、さては大将おっかなくて今夜も里に下ったなと、二人で笑いながら焚火をして、釣って来た魚を串《くし》に刺して焼きながら、その傍で食事をしていた。すると向こうの方でかわいらしい猫の鳴き声がする。狐が出るなどという時には、たとえ猫でも力になるべから呼んでみろといって、呼ぶとだんだんと小屋に近づいて来て、しまいには小屋の入口から顔を出した。小さなかわいらしいぶち猫であった。招ぎ込んで魚などを食わせて背中を撫でてやると、咽をころころと鳴らしている。今夜はどこへも行くんじゃないぞと、そこにあった縄を取って猫にワシコに掛けて小屋の木に繋いでおくと、食ってしまってから出て行こうとして、いろいろと身をもだえてあばれる。年上の方の男はこの恩知らずと言って、腰からはずしておいた鉈を取って、猫の肩先を切ったところが、縄までいっしょに切れて、向こうの藪に逃げ込んでしまった。一方の若い者が言うには、猫は半殺しにすると後で祟るものだというから、しっかり殺すべしと。そこで二人で出かけて竹《たけ》鎗《やり》と鉈とでとどめを刺して、それを縄で結んで小屋の口に釣るしておいて寝た。翌朝も起きてその猫を見て冗談などを言っていたのだが、そのうちに外から監視の男がはいって来て、やあお前たちはこの狐を殺してくれたか。本当に悪い狐で、どんなにおれも迷惑をしたか知れないと言った。なに狐なものか、あれはとぺえっこな(小さな)ぶち猫だと言って、若い衆は小屋から出て見ると、それがいつの間にか大きな狐になっていたという。これは土淵村の鉄蔵という若者の聞いてきた話である。 二〇九 近所の鶴という男の女房は、まだ年の若い女である。先日山に行って自分の背よりも丈の高い萱の中を分けて行くと、不意に大熊に行き逢った。熊も驚いて棒立ちになったが。たちまち押しかかって来た。なにぶん人間の体よりもずっと大きな熊ではあり、他にしかたがないので、その場に倒れたまま身動きもせずにいると、熊は静かに傍へ寄って来て、手首や足首などを何度も握って見る。それから乳房や腹まで次々と体のそこらじゅうを探り、さらに呼吸をうかがっている。女は今にも引き裂かれると思って生きた心持もなかったが、そのうちに熊はなんと思ったか、女の体を抱いて沢の方へ投げつけた。それでもこの女は声をたてずにいると熊ははじめて悠々と立ち去ったそうである。これは昭和三年の九月十五日に、つい二、三日前の事だと言って話していたのを聞いた。 二一〇 大正十五年の冬のことであるが、栗橋村字中村の和田幸次郎という三十二歳の男が、同じ村分の羽山麓へ狩りに行っていると、向こうから三匹連れの大熊がのそのそとやってきた。見つけられては一大事だと思って、物陰に隠れて見ていると、三匹のうちの大きい方の二匹は傍《わき》へ行ってしまったが、やや小さ目の一匹だけは、そこに残って餌でもあさっている様子であった。早速これを鉄砲で射つと、当たり所が悪かったのか、すぐに振り返って立ち向かって来た。二の弾丸《たま》をこめる隙もなかったので、飛びつかれたまま、地面にごろりと倒れて死んだふりをすると、熊は方々を嗅《か》いでいたが、何と思ったのか、この男の片足を取って、いきなりぶんと谷底の方へ投げ飛ばした。どれほど遠くへ投げ飛ばされたかは知らぬが、この男は投げられるとすぐに立ち直って二の弾丸を鉄砲にこめた。そうして悠々と向こうへ立ち去る熊を、追い射ちに射ち倒した。胆は釜石へ百七十円に売ったということで、これは同年の十二月二十八日の岩手日報に、つい近頃の出来事として報道せられたものである。 二一一 これは田の浜福次郎という人の直話である。この人の若い頃、山の荒《あら》畦《く》畳《たた》みに行った。当時山に悪い熊がいたが、これを見かけしだいに人々が責めこざして、ますます性質が獰《どう》猛《もう》になっていた。ある日のこと、いきなりこの熊が小柴立ちの中から現われて襲いかかった。その勢いにひるんで、思わず大木の幹に攀《よ》じ登ると、熊も後から登って来た。いよいよ上の枝、上の枝と登って行けば、熊もまた追って来る。とうとう、せんかたなく度胸をきめ、足場のよい枝を求めて踏み止まり、腰の鉈《なた》を抜き取って、登り来る熊の頭を、ただ一割りと斬りつけた。ところが、手もとが狂って傍らの枝をしたたか切った。幸いそのはずみに、熊はどっと下におちて行った。しかし今度は木の根元に坐ったまま、少しも動かずに張り番をしている。木の上の者にはこれをどうするわけにもゆかず、気をもんでいるうちに早くも夕方になり、あたりが暗くなるにつれて、自分も生きた心持はない。その時ふと考えたのは、いかに執念深い獣だとは言え、朝からこの時刻まで少しの身動きもせずにいるのはおかしい。何か理由があるのだろうと。試みに小枝を折って投げ落としてみたが、熊は元のまま微動だにしない。これでやや気が楽になって、今度はかなり太い枝を切って投げ下し、熊の頭に打ちつけてみたが、やはり結果は前と同じであった。これこそおかしいと思い、大声を出して熊のばかなどと罵《ののし》ったが、それでも少しも感ぜぬ様子である。いよいよ度胸を据えて、おそるおそる幹から降りて行って見ると、熊は死んでいた。不思議に思って、その屍体を転がしてよく見ると、尻の穴から太い木の切っちょぎが突《つ》き刺さって腸《はらわた》まで貫いていた。これは木から落ちた時に刺さったものであったという。うそのような、しかし本当にあった話である。 二一二 栗橋村の嘉助とかいう人が、本当に出逢った事だという。この人が青年の頃、兄と二人して山畠に荒《あら》畦《く》を畳みに行くと、焼畑の中に一本の大木があって、その幹が朽ち入り、上皮が焼けたために大穴になっていた。ふと見るとこの大木から少し離れた処に、大熊が両手で栗穂の類を左右に引っ掻《かな》ぐっている。兄弟は思わず知らず後《あと》退《ずさ》りをしてようやく物陰に隠れたが、だんだん心が落ちついてくると、そっと熊の様子を窺い始めた。熊はしばらくの間栗穂などをむしって食っていたが、何と思ったのかその朽ち木の穴の中にはいって行った。どうしたのであろうと思いながら、なおも二人は見張っていたがいっこうに熊は出て来ない。それがあまり長いので、二人は、よしきた、あの熊を捕って高く売ろう。なんとひどく大きな物ではなかったか、よい金儲けだと言い合って、おもむろに朽ち木の傍に歩み寄り穴の口に矢《や》来《らい》を掻《か》き切って中から出られぬようにした。そうして兄を張り番に残し、俺は一走り家に行って鎗《やり》、鉄砲を持って来るからと、嘉助は走り出した。その後から兄は、誰にもこのことを聞かせるな、俺たち兄弟して、しこたま金儲けすべすと言い聞かせ、自分は穴を見つめたまま、眼《ま》弾《はじき》もしないで張り番をしていた。そのうちに喜助は家から鉄砲、鎗などを持って還ったので、二人は例の大木の処に引き返し、いよいよ朽穴にさぐりを入れ、鉄砲、鎗などで突き立てようとした刹那である。大きな地震《ない》が揺れて、みりみりとこの大木を根こそぎに倒した。兄弟は驚いて樹の側を飛び退いていたが、やがて地震はおさまったので、この間に熊が逃げ出してはならぬと、穴の口に鎗と鉄砲をさし向け、待ち構えていた。しかしいつまでたっても熊は出て来ない。元気な弟はとうとうじれったくなり、獲物を先に構えて穴の中にはいってみた。が、どうしたものか穴の中には熊の姿など見えなかった。いくら探しても、さらに影もないので、しかたなく這い出して来て、兄貴お前は俺が家へ行って来る間に熊が出たのを見失ったのだなとなじれば、兄は、何を言う、俺は瞬《まばた》きもしないで見張っていたのだ。そんなことがあるものかと、互いに言い争いを始めた。二人はしばらく諍《いさか》っていたが、ふと向う山の岩の上を見ると、先刻の熊がそこに長くなっている。あや、あんな処にいた、早く早くと罵り騒いだ。しかし熊はいつまでも身動き一つしない。二人がそろそろと近寄ってみたら実はその熊は死んでいたのであった。不意の地震で木が倒れた刹那に、朽ち木の奥深く入り込んでいた熊が向う山へ弾《はじ》き飛ばされて、石に撲《う》ち当てられて死んだのであろうという。ちょっとありそうもない話だが、これは決して偽りではない、確かな実話だといっていた。 二一三 明治の初め頃であったかに、土淵村字栃内の西内の者が兄弟二人して二頭の飼い馬を連れ、駒木境の山に萱苅りに行くと、不意に二疋の狼が出て来た。馬の荷鞍にさしておいた鎌を抜き取る暇もなく、弟はとっさに枯れ柴を道から拾ってこの二匹の狼を相手に立ち向かった。兄はその隙に三頭の馬を引き纏め、そのうちの一頭に乗って家まで逃げ帰った。たとえ逃げ帰っても、家族の者や村人に早くこのことを知らせたならば、弟のほうもあるいは助かったかも知れぬが、どういうわけがあったのか、兄は人に告げることをしなかったので、たった十五とかにしかならぬその弟は、深傷を負って虫の息になり、夕方家に帰って来た。そうして縁側に手をかけるとそのまま息が絶えたということである。 二一四 小国村又《まつ》角《かく》の奥太郎という男が、遠野町へ行った帰りに、立丸峠まで来るとちょうど日が暮れた。道は木立ちの中であるからいっそう暗くて、歩けないほどになった。その時向こうから何物かやって来てどんと体に突き当たった。最初は不意を食って倒れたが、起き上がって二、三歩行くと、またどっと来て突き当たったから、今度はそいつをしっかり抱き締めたまま、小一里離れた新田という村屋まで行って、知合いの家を起こして、燈火のあかりで見ると、大きな狼であったから打ち殺したという。明治二十年頃の出来事である。 二一五 土淵村野崎の下屋敷の松爺が、夕方になってから家の木割り場で木を割っていたら、突然そこへ猪《いのしし》が飛んで来た。よしきたと言いざま、その猪の背中に馬乗りにまたがって、猪の両眼を指で掻き抉《えぐ》って、とうとう殺してしまったそうな。これも前と同じ頃の話だといった。 二一六 佐々木君の幼少の頃、近所に犬を飼っている家が二軒あった。一方は小さくて力も弱い犬であったが、今一方の貧乏な家で飼っていたのは体も大きく力も強かった。近所の熊野ノ森に死《そ》馬《ま》などが棄ててあると、村の子どもが集まってそれを食ったが、この小犬は他を怖れてそこに行くことができないで、わが家の軒からうらやましそうに遠吠えをしているばかりである。これを大犬が憐んで、常にその肉を食い取ってくわえて来ては与え、小犬も喜んでそれをもらって食った。しかしこの大犬を飼っていた家は、もともと貧しかったから犬の食事も充分にあてがわれなくて、平常腹をへらしていることが多い。小犬はそれを知っていて、毎日自分に与えられる食事をしこたま腹の中に詰めこんで来ては、大犬の傍でそれを吐き出して食わせていた。一度食った飯であるから、人が見ては汚くてならないが、大犬は喜んで食べた。じない(いじらしい)ことだと言って、村じゅうの者が話の種にしたという。 二一七 つい近頃のことであったが、土淵村和野の菊池某の飼い犬が小屋の軒下に寝そべっていると、傍らでその家の鶏と隣家の鶏とが蹴合いを始めた。犬は腹這いになったままそれを見ていたが、自分の家の鶏が負けたと見るやいなや、やにわに飛び起きて隣家の鶏の首を噛み殺したそうな。 二一八 佐々木君縁辺の者に、以前大槌町の小学校で教師を勤めていた人がある。猟が好きで、猟期には暇のあるごとに山に行っていた。ある時いつものように山に出かけたが、獲物が少なく気を腐らせていると、梢にサガキ(かけす)が五、六羽ぎいぎいと鳴いていた。味のよい鳥であるから、あれでも捕って帰ろうと思って一羽を射落とすと、仲間の鳥はいちだん高く飛び上がって、非常に鋭い声でぎぎぎぎと鳴き騒いだ。その声に応じて四方の山沢からおびただしい数のサガキの群れが集まって来て、この人の頭上を低く縦横に飛び翔《かけ》り、蹴散らすような姿勢を見せて、むやみと鳴き廻るのであった。連れもない山の中のことであるから、無気味に思ったが、負けてはならぬと心を決めて、弾丸のある限り、群がる鳥を射ちまくり、三、四十羽もばたばたと足元に射落とした。しかし鳥の数は減るどころかしだいしだいに増して来る一方で、頭の上を飛び廻り鳴き騒いで止まらぬ。ついに弾丸が尽きてどうしようもなくなったので、落とした鳥を拾い集め、家に帰ろうとすれば、どこまでも鳥の大群がつきまとって騒ぐ。とうとう家に帰ったが、内に駆け込みさま妻君に弾丸の用意を命じ、また鳥の群れを射った。射落とした鳥は庭や畑のあちこちに散乱し、その数は後に数えると百六十に余るほどであった。しかもなお、鳥の群れは家のまわりを去らず、夜になるまで騒いでいた。さすがに夜中にはどこかへ散って行ったが、鳥の執念は恐ろしいものだと、この人は常に語っていた。 二一九 狩人は山幸の呪《まじない》にオコゼを秘持している。オコゼは南の方の海でとれる小魚で、はなはだ珍重なものであるから、手に入れるのはすこぶる難しい。これと反対に漁夫は山オコゼというものを秘蔵する。山野の湿地に自在する小貝を用い、これは長さ一寸ばかり、煙管《きせる》のタンポの形に似た細長い貝で、巻き方は左巻であったかと思う。これを持っていると、漁に利き目があるといって、珍重するものである。 二二〇 閉伊郡の海岸地方では、軒ごとに鏡《かがみ》魚《うお》といって、やや円形で光沢のある魚を陰《かげ》干《ぼ》しにして掛けて置く。魔除けだといわれる。 二二一 旗屋の縫は当国きっての狩りの名人であったといわれているが、この名高い狩人から伝わったという狩りの呪法がある。たとえ幾寸という短い縄切れでも、手にとってひろげながら、一尋二尋三尋半と唱えて、これを木に掛けておけば、魔物はけっして近寄らぬものだという。 二二二 小国村字新田の金助という家の先祖に、狩人《またぎ》の名人がいた。ある時白見山の長者屋敷へ狩りに行くと、一人の老翁に行き逢った。その老人の言うには、お前がマタギをしたのでは山のものが困るから止めてはくれぬか。その代わりにこれをやるからと言って、宝物をくれた。それからは猟を止め、現在でもこの家の者は鉄砲を持たぬということである。この辺の土地はまったくの山村で、耕すような地面でもなく、狩りを主として生計を立てているのに、これを止めると言うのは、よくよく深い理由があったのだろうという。 二二三 青笹村飛鳥《あすか》田《だ》の菊池喜助という人の祖父が、ある時山で狼に行き遭った。その狼がはむかって来ると、大いに怒り、あべこべにそいつを追い詰めて指で眼玉をくりぬき、縄をかけて家まで曳きずってきたという。これは五、六十年以前のことである。またこの人は非常な大力で、飛鳥田の路傍にあった六十貫くらいは充分あろうという大きな六道の石塔を、隣家の爺と二人して路の両側から手玉に取って投げ合ったものだそうな。 二二四 昔土淵村字厚楽の茶屋に、四十恰好の立派なお侍がお伴を一人連れて休んでいた。ちょうど昼飯時であったから、持って来た握り飯を炉に炙《あぶ》り、また魚を言いつけてこれを串にさして焼いていた。その場には村の男が四、五人居合わせて、これも火にあたっていたが、中に大下の万次郎という乱暴者がいて、いきなりその侍の握り飯を取ってむしゃむしゃと食い、その上に串の魚にまで手を出した。侍はまっ赤になって、物をも言わず刀を抜いて斬りつけたが、万次郎は身をかわして、その刀を奪い取り、土台石の上に持って行って、さんざんに折り曲げ、めちゃめちゃに侍の悪口を言った。けれどもその侍はすごすごと茶屋を出て行ったそうな。後で聞くとこれは盛岡の侍であったというが、さすがに土百姓に刀をとられたとは言えなかったのであろう。そのまま何事もなかったそうである。 二二五 土淵村に治吉ゴンボという男がいた。この郷でゴンボとは酒乱の者や悪態をする者のことを言うが、この治吉も丈《たけ》高く、顔かたちが凄い上に筋骨の逞《たくま》しい男であった。市日に遠野町の建屋という酒屋で酒を飲んでいるところへ、気仙から来たという武者修業の武士がはいって来た。下郎を一人つれて、風呂敷包みをワシコに背負い、滝縞の袴《はかま》をはいた偉丈夫である。治吉はこの侍を見るなり、俺こそはこの郷きっての武芸者だ、さあ試合をしようと言った。侍は心得たと、家来に持たせた荷物の中から木刀を取り出させる。治吉はもともとただの百姓で剣術などは少しも知らず、酒の酔いに任せて暴言を吐いただけであるから、相手のこのものものしい様子を見てひそかに驚いたが、もう仕方がない。今日で命はないものだと覚悟をして、見る通り俺は獲物を持ち合わさぬが、何でもあり合わせの物でよろしいかと念を押した。侍の方は、望みの物でさしつかえないと答えたから、治吉は酒屋の裏手へ獲物を探しに行って、小便をしながらその辺を見廻すと、そこに五寸角ほどの材木が一本転がっていた。よしこれで撲《う》ちのめしてくれようと言って、この材木を持ち、襷《たすき》掛《が》けで元の場所に引き返した。武芸者の方では、治吉が裏へ行ったきり帰りが遅いので逃げたものと思ってたかをくくり、しきりに高言を吐いていたところであったから、治吉の出《いで》立《た》ちを見て驚いた様子である。治吉はこの態《てい》を素早く見て取ったから、さあ武芸者、木刀などでは面白くない。真剣で来いと例の材木を軽々と振り廻して見せた。すると何と思ったのかその侍は、からりと木刀を棄て、いや先生、試合の儀はどうかお取り止めください。その代わりに、拙者が酒を買い申そうと、酒五升を買って治吉に差し出した。治吉はますます笠にかかって、いやならぬ、どうしても試合をすると言って威張って見せると、侍はそれを真に受けて怖がり、ひたすら詫びを言っていたが、とうとう家来といっしょにこそこそと逃げ去った。天下の武芸者を負かした上に、五升の酒をただで飲んだと言って、治吉はますます自慢してならなかったそうな。 二二六 青笹村字中沢の瀬《せ》内《ない》という処に、兄弟七人皆男ばかりの家があった。そのうちに他国に出あるいて終わりの知れない者が三人ある。総領も江戸のあたりを流れあるいていたが、後に帰って来て佐比内の赤沢山で、大《お》迫《はざま》銭《せん》の贋《にせ》金《がね》を吹いて、一夜のうちに富裕になったという話が残っている。 二二七 附馬牛村の阿部某という家の祖父は、旅人から泥棒の法をならって腕利きの盗人となった。しかしけっして近所では悪事を行なわず、遠国へ出て働きをしたという。年をとってからは家に帰っていたが、する事がなく退屈でしかたがないので、近所の若者たちが藁仕事をしている傍などへ行っては、自分の昔話を面白おかしく物語って聞かせて楽しんでいた。ある晩のこと、この爺が引き上げた後で、厩《うまや》の方がたいへんに騒がしい。一人の若者が立って見ると、数本の褌《ふんどし》が木戸木に結びつけてあって、馬はそれに驚いて嘶《いなな》くのであった。はて怪しいと思って気がついて探ってみると、居合わせた者は一人残らず褌を盗られていたそうな。年はとっても、それほど腕の利いた老人であったという。また前庭に竿を三、四間おきに立てておき、手前のを飛び越えて次の竿に立つなど、離れ業が得意であった。竿というから相当の高さがあって、かつ細い物であったろうが、それがこんなに年をとって後もできたものだという。またこの爺は、人間は蜘蛛や蛙にもなれるものだと口癖のように言っていたそうな。死際になってから目が見えなくなったが自分でも、俺は達者な時に人様の目を掠《かす》めて悪事をしたのだからしかたがないと言っていた。今から七、八十年前の人である。なお、旅人の師匠から授かった泥棒の巻物は、近所の熊野神社の境内に埋まっているということであった。 二二八 同じ附馬牛村の字大沢には、砂沢という沢がある。この沢合を前にして、某という家があるが、ある時この家の爺が砂沢へ仕事に行って、大蛇に体を呑まれた。幸いに腰にさしていた鎌のために、蛇は唇を切られて死に、爺は蛇の腹から這い出すことができた。家に帰ってこの話をすると、村の者たちが大勢集まって来て、砂沢へ行ってみた。いかにもそこに大蛇が死んでいたという。それから数年の後、銀茸に似たみごとな茸がその沢一面に生えた。煮て食おうと思って、爺がそれを採っていたら、洞のどこかで、油させさせと言う声がする。たぶん茸を煮る際に鍋へ油を入れよということであろうと思って、その通りにして賞味した。ちょうど近所の居酒屋に若者達が寄り集まっていたが、この茸があまりにみごとなので採ってきて煮て食った。するとこちらは十人の者が九人まではその夜のうちに毒にあたって死に、少ししか食わなかった者でさえ三日ばかり病んだという。これは岩城君という人が壮年の頃の出来事だといって語ったものである。今から四十年近くも前のことであろうか。 二二九 昔遠野の一日市の某という家の娘は抜首だという評判であった。ある人が夜分に鍵町の橋の上まで来ると、若い女の首が落ちていて、ころころと転がった。近よれば後にすさり、近寄れば後にすさり、とうとうこの娘の家まで来ると、屋根の破れ窓から中にはいってしまったそうな。 二三〇 これは明治になってから後の話であるが、遠野町の某という女には妙な癖があって、年ごろになってからは、関係した男ごとに情死を迫ってならなかった。それが一人二人でなく、また嫁に行っても情死のことばかり夫に言うのでいつも不縁になって帰った。こんなことが十何回もあった後に石倉町の某という士族の妾になったが、この人にも情死を奨《すす》め、二人で早瀬川へ身投げに行った。そうして自分だけ先に死んだが、男の方は嫌になって帰って来たそうである。 二三一 維新の当時には身に沁みるような話が世上に多かったといわれる。官軍にうち負かされた徳川方の殿様が、一族ちりぢりに逃げ落ちた折のことであったが、ある日村のなかに美しいお姫様の一行が迷って来た。お姫様の年ごろははたち前らしく、今まで絵にも見たことがないうつくしさであった。駕《か》籠《ご》に乗っておられたが、その次の駕籠にやや年をとったおつきの婦人が乗り、そのほかにもお侍が六人、若党が四人、医者坊主が二人までつき添っていた。村の若い者は駕籠舁《か》きに出てお伴をしたが、一行が釜石浜の方へ出るために仙人峠を越えていった時、峠の上には百姓の番兵どもがいて、無情にもお姫様に駕籠から降りて関所を通れと命じた。お姫様は漆《うるし》塗《ぬ》りの高下駄に畳の表のついたのを履《は》かれて、雇われて行った村の者の肩のうえに優しく美しい手を置いた。その様子がいかにもいたわしく淋しげであったから、心を惹かれた若者たちは二日三日も駕籠を担いでお伴をしたという。佐々木君の祖父もその駕籠舁きに出た者の一人であった。駕籠の中にはお姫様は始終泣いておられたが、涙をすすり上げるひまに、何かぽりぽりと噛まれた。たぶん煎豆でも召し上がっているのであろうと思ったところが、それは小さな菓子であった。今考えると、あの頃からもう金米糖があったのだと、祖父が語るのを佐々木君も聞いた。またお姫様が駕籠からおりて関所を越えられる時に、何ゆえにこんな辛《つら》い旅をあそばすのかとお聞《き》きしたら、お姫様はただ泣いておられるばかりであったが、おつきの老女がかたわらから、戦《いくさ》が始まったゆえと一口答えた。あれはどこのお城の姫君であったろうと、常に追懐したという。 二三二 やはり前と同じ頃の話である。すさまじい大吹雪のある夜のこと、誰か佐々木君の家の戸を叩く者があるので出てみると、引きずるように長い刀を差した、美しい二人の若侍が家の外に立っていて、俺たちは昼間は隠れて、夜旅をしている者だが、食べ物がないから、どうか泊めてくれと言った。かわいそうに思ったが、その頃はお上の法《はつ》度《と》で、かような人たちを泊めることはならなかったので、二人を村の熊野堂に案内して、米味《み》噌《そ》を持ち運んで〓《しの》がせた。こうして二、三日の間二人の侍は堂内に隠れていたが、密告する者を怖れたのか、ある夜どこかへ立ち去って、朝行って見たらいなかったという。 二三三 明治もずっと後になってからのことであったが、小国の方から土淵村へ、若い男女が物に追われるようにしてやって来た。この二人の跡を追って来た刀を持った男に、林崎の田圃の中で追いつかれて、男も女も少しの手向かいもせずに、斬り殺されてしまった。どういう事情があったのであろうか、二人斬った男はほろほろと涙をこぼしながらこの二人の屍体を路傍に埋め、女の髪に差していた《か》笄《んざし》を墓のしるしに立ててから、もと来た方へ戻って行ったという。それを見ていた老婆たちが、今でもこの話をしては涙ぐむのである。 二三四 これは維新当時のことと思われるが、油取りが来るという噂が村々にひろがって、夕方過ぎは女子供は外出無用との御布令さえ庄屋肝《きも》入《い》りから出たことがあったそうな。毎日のように、それ今日はどこ某の娘が遊びに出ていて攫《さら》われた、昨日はどこで子供がいなくなったという類の風説が盛んであった。ちょうどその頃川原に柴の小屋を結んだ跡があったり、ハサミ(魚を焼く串)の類が投げ棄ててあったために、油取りがこの串に子供を刺して油を取ったものだなどといって、ひどく怖れたそうである。油取りは紺の脚《きや》絆《はん》に、同じ手差をかけた人だといわれ、油取りが来れば戦争が始まるとも噂せられた。これは村のたにえ婆様の話であったが、同じような風説は海岸地方でも行なわれたと思われ、婆様の夫治三郎爺は子供の時大槌浜の辺で育ったが、やはりこの噂に怯《おび》えたことがあるという。 二三五 これも同じ頃のことらしく思われるが、佐々木君が祖父から聞いた話に、赤い衣を著た僧侶が二人、大きな風船に乗って六角牛山の空を南に飛び過ぎるのを見た者があったということである。 二三六 昭和二年一月二十四日の朝九時頃には、この地方を始めて飛行機が飛んだ。飛行機は美しく晴れた空を六角牛山の方から現われて、土淵村の空を横切り、早池峰山の方角に去った。村人のうちには飛行機を見たことはもちろん、聞いたこともない者が多かったから、プロペラの音が空に響くのを聞いて動転した。佐々木君かねて飛行機について見聞していたので、村の道を飛行機だ、飛行機だと叫んで走ると、家々から驚いた嫁娘らが大勢駈け出し、どこか、どこかとこれもあわてて走り歩いた。そのうちに飛行機は機体を陽に光らせて山蔭に隠れたまま見えなくなったが、爆音はなおしばらく聞え、人々は何か気の抜けたようになって、物を言うこともしなかった。また同じ年の八月五日にも、一台の飛行機が低く小烏瀬川に沿って飛び去った。その時は折柄の豪雨であったからたいていの人は見ずにしまったという。 二三七 この地方では産婦が産気づいても、山の神様が来ぬうちは、子供は産まれぬといわれており、馬に荷鞍を置いて人が乗る時と同じようにしつらえ、山の神様をお迎えに行く。その時はすべて馬の行くままにまかせ、人は後からついて行く。そうして馬が道で身ぶるいをして立ち止まった時が、山の神様が馬に乗られた時であるから、手綱を引いて連れ戻る。場合によっては家の城《じよう》前《まえ》ですぐ神様に遭うこともあれば、村境あたりまで行っても馬が立ち止まらぬこともある。神様が来ると、それとほとんど同時に出産があるのが常である。 二三八 馬を飼っていない家では、オビタナを持って迎えに行く。オビタナとは児を背負う時にする帯のことをいい、この時に持って行ったオビタナは、子供が生まれたら神社か村の道《みち》又《また》まで持って行って、送り返さなければならぬ。 二三九 後産の下りるのが遅い時には、産婦の頭に甑《こしき》をかぶせると間もなく下りるという。佐々木君の隣家の娘が子を産んだ時も、後産が下りなくて困ったが、村の老婆がこの呪禁を覚えていたので、難なく下ろすことができた。この呪禁の効き目は否《いや》と言われぬものだという。 二四〇 双児が生まれた時には、その父親が屋根の上から近所に聞こえるだけの大声で、俺あ嬶《かかあ》双児を生んだであと三べん喚《よ》ばわらなくてはならぬ。そうせぬと続けさまに、また双児が生まれるといわれている。 二四一 産《おび》屋《や》の中では、産婦は藁一《ひと》丸《まる》の枕をする。一丸とは十二束のことである。そうして一日に一束ずつ抜き取って低くしてゆき、二週間目には平枕の高さにするものだという。産婦は産屋にいるうちに、平常食べるあらゆる食物を少しずつ食べておくようにする。この時に食べておかぬと、後でこの食物を食べる時に必ず腹を病む。ただ一つ例外なのは灰気のある物で、これはいっさい食ってはならぬとされている。 二四二 生子の枕許には必ず刃物を置かねばならぬ。そうせぬと、独りきりで置くような時に、生子の肌の穴から魔がさすという。やや大きくなってからは、嬰児に鏡を見せると魔がさすといって忌む。 二四三 産婦が産屋から初めてお日様の下に出る時には、風呂敷のようなもので顔を包んで出る。また生子の額には鍋墨で点《ほし》をつけてやらねばならぬ。 二四四 妻がクセヤミ(悪阻)または出産の時に、その夫も同時に病むことがある。諺にも、病んで助けるものは、クセヤミばかりだという。 二四五 生まれ変わるということもしばしばあることだという。先年、上郷村の某家に生まれた児は、久しい間手を握ったまま開かなかった。家人が強いて開かせて見ると北《きた》上《がみ》の田尻の太郎爺の生まれ変わりだという意味を書いた紙片を堅く握っていた。このことを太郎爺の家族の者が聞くと、俺の家の爺様どは、死んでから一年も経たずに生まれ変わったじと言って、喜んだということである。また墓場の土に柳やその他の樹木が自然に生えることがあると、その墓の主はもうどこかに生まれ変わったのだといわれる。 二四六 附馬牛村の某という処に、掘《ほつ》返《かえ》し婆様と呼ばれている老婆があった。この老婆は生まれた時に母親に戻しを食って唐臼場に埋められたが、しばらくして土の中で細い手を動かしたので生き返ったと言って掘り起こして育てられた。それから掘返しというあだ名がついて、一生本名を呼ばれなかったそうである。縊られる時に一方の眼が潰《つぶ》れたので生涯メッコの婆様であったが、十年ほど前に老齢のために死んだ。 二四七 年回りの悪い子は捨子にするとよい。まずその子に雪隠の踏《ふん》張《ばり》板《いた》の下を潜らせた後、道違いに行ってちょっと棄てる。始めから拾う人の申合せができており、待っていてすぐ拾ったのを、改めてその人から貰い子をする。こういう子供には男ならば捨吉、捨蔵、女の場合お捨、おゆて、ゆてごなど、捨という名をつけることが多い。 二四八 生まれた児が弱い場合には、取子にして、取子名をつけてもらう。一生の間、取子名ばかり呼ばれて、戸籍名の方は人がよく知らぬということも往々にあった。佐々木君の取子名は、若宮の神子から貰ったのが広といい、八幡坊から長助、稲荷坊からは繁という名を貰っておいたと言うが、しかしいっこう強くもならなかったと言って笑った。 二四九 以前は家々がそれぞれのマキに属していた。マキは親族筋合を意味する言葉である。右衛門マキ、兵衛マキ、助マキ、之丞マキなどの別があり、人の名はマキによって称するのが習いであった。佐々木君の家は右衛門の方であった。姓はなくて、代々山口の善右衛門と称し、マキには吉右衛門、作右衛門、孫右衛門、孫左衛門などという家があった。 二五〇 人の名を呼ぶ場合には、必ず上に父親の名を加えて呼ぶ。たとえば春助という人の子が勘太である時は、息子の方を春助勘太と呼び、小次郎の息子の万蔵の世ならば、小次郎万蔵と呼ぶ。同じようにして、善右衛門久米、吉右衛門鶴松、作右衛門角、犬松牛、孫之丞権三などがあり、女の方も長九郎きく、九兵衛はるの、千九郎かつなどといった。また女の子の名に昨今めんどうな漢字が用いられるようになったのは、他の他方にも通ずる同様な傾向であろう。 二五一 あだ名の類もまたはなはだ多い。法《ほ》螺《ら》を言うから某々法螺、片目であるから某々メッコ、跛だから某々ビッコ、テンボであるから某々テンボなどいう例は、この郷ではどこへ行っても普通である。新助爺という老人はヤラ節が巧みであったために、新助ヤラとばかりいって他の名を呼ばなかった。いたって眼が細い女をお菊イタコ、丈が人並はずれて低かったのでチンツク三平、その反対に背高であったから勘右衛門長《なが》、また痩せっぽちの男を打ち鳥に見立てて鉦打ち長太などという例もあった。盗みをしたためカギ五郎助、物言いがいつも泣き声なのでケエッコシ三五助、吃《ども》りであるからジッタ三次郎、赭《あか》ら顔が細いのでナンバンおこまなどと言った例の他に、体の特徴をとって、豆こ藤吉、ケエッペ福治、梟《ふくろう》留、大蛇留などともいった。歩き様をあだ名にしたものには、蟹《かに》熊《くま》、ビッタ手桶、カジカ太郎、狐おかん、お不動かつなどがあり、おかしかったのは腕を振って歩く小学校の先生を腕持ち先生、顔の小さな小柄の女先生を瓜《うり》子《こ》姫《ひめ》子《こ》などといった例のあったことである。 二五二 青笹村の関口に、毎日毎日遠野の裏町に通って遊ぶ人があった。その遊女屋の名が三光楼であったゆえに、土地の者はこの人をも三光楼と呼ぶようになったが、しまいにはそれが家号になって、今でもその家をそういっている。 二五三 男の子が初めて褌《ふんどし》をあてる時には叔母に晒《さらし》木《も》綿《めん》を買ってもらう。また初めて生えた陰毛は必ず抜かねばならぬ。そうすると肝いり殿が抜かれたと言って後からうんと生えて来るのだそうな。 二五四 ひとりでに帯がほどけたら、その晩に思う人が来る。また褌や腰巻が自然にはずれてもたいへんよいことがあるといわれており、そのほか眉毛が痒《かゆ》いと女に出逢うということもある。 二五五 家を出て最初に女に逢うと、その日は一日よいことがあるが、和尚であったら三歩戻って唾をするものだという。蛇に逢えばその日は吉、またその蛇が道切りであって、右手から出て来た時は懐入りといって、金がはいると言う。 二五六 蕃《なん》椒《ばん》を一生食わねば長者になる。炉の灰を掘ると中からボコが出てくる。炉ぶちやカギノハナ(自在鍵)を叩くと貧乏神が喜ぶ。膳に向かって箸《はし》で茶《ちや》碗《わん》を叩くと貧乏になる。椀《わん》越《ご》しに人の方を見ると醜い嫁や婿《むこ》を持つなど、どの地方でもいわれている俗信の類がこの地方にも非常に多い。また夜の火トメ(埋火)と、ヒッキリ(大鋸)の刃《は》研《と》ぎなどは人手を借りてするものではないという。 二五七 近年土淵村字恩徳に神憑《つ》きの者が現われて、この男の八《はつ》卦《け》はよく当たるという評判であった。自分で経文を発明し、佐々木君にそれを筆写してくれと言ってきたこともあった。山口の某という男がこの神憑きの男に八卦を見てもらいに行って帰っての話に、自分は不思議なことを見てきた。あの八卦者の家は常居の向こうが一本の木を境にして、三間ばかり続いて藁敷きの寝床になっていたが、そこには長い角材を置いて枕にし、人が抜け出したままの汚れた蒲団が幾つも並んでいた。家族は祖父母、トト、ガガ、アネコド夫婦に孫子等十人以上であるが、皆そこに共同に寝るらしかったと語ると、傍でこの話を聞いていた者が、なんだお前はそんなことを今始めて見たのか。あの辺から下閉伊地方ではどこでもそうしているのだと言った。佐々木君が幼時祖父母から聞いた胆沢郡の掃部長者の譚には、三百六十五人の下婢下男を一本の角材を枕に寝かして、朝になるとその木の端を大槌で打ち叩いて起こしたという一節があって、よほどこれを珍しいことのように感じており、ことさら長木の枕という点に力を入れて話されたものだという。 二五八 夜は真裸になって寝るのが普通である。こうせぬと寝た甲斐がないといい、一つでも体に物をつけて寝ることを非常に嫌う。ことに夫婦が夜、腰の物を取らずに寝るのは不縁になる始めだといって、不吉なこととされている。 二五九 佐々木君の村の者が、栗橋村の話をするのに、あの辺では鍋《なべ》を中心に円座になって、めいめいが鍋から直接に椀で飯を掬《すく》って食う。汁もその通りで、この男が豆《とう》腐《ふ》だけ食って汁を残して置いたら、家の主婦が気を利《き》かしてそれを鍋にあけて、またその鍋の中から豆腐ばかりを盛ってくれた。しかしいっこうに咽喉を通らなかったと。土淵村ではそんなことはせぬが、便所で紙を使う家はまだほとんどない。その棒をカキ木といっている。 二六〇 家族の者が旅に出たり兵隊に行った後では、食事ごとにその者の分を別に仕度して影膳を供える。そうして影膳に盛った飯の蓋《ふた》に湯気の玉がついていなかった時、または影膳の椀や箸などが転び倒れた時は出先の人の身の上に凶事が起こった時だという。また影膳を供えているうちにこれを食べる者があると、出先の人は非常に空腹になるなどともいわれている。その実例ははなはだ多い。山口の丸吉某が日露戦争に出征して黒溝台の戦争の際であったかに、急に醤油飯の匂いが鼻に来た。除隊になってからこの事を話すと、これはその日の影膳に供えた物の匂いであったそうである。 二六一 家に残った者が旅先の一行の動静を知るために行なう占いの方法もある。附《つけ》木《ぎ》または木切れなどを人数だけ揃え、それに各々一行の者の名前を書き込み、盥《たらい》などの水の上に浮かべる。そうしてこれらの木片の動き具合によって、旅先の様子を察することができる。佐々木君の祖母が善光寺詣りに行った時は、同行二十四、五人の団体であったが、留守中同君の母はこの人数だけの木切れを水に入れておき、今日は家の婆様は誰々といっしょに歩いている。今夜は誰々といっしょに歩いている。今夜は誰々と並んで寝たなどと言っておられたという。ある日のこと、いつもいっしょに歩く親類の婆様と家の婆様との木切れがどうしても並ばなかったので、幾度も水を掻き廻してやり直したが、やはり同じことであったから、何かあったのではないかと心配した。帰ってからその話をすると、ほんにあの婆様とは気が合わぬことがあって、一日離れていたことがあると語った。伊勢から奈良へ廻る途中のことであったそうな。また先年の東京の大地震の時にも、村から立った参宮連中の旅先が気がかりであったが、やはりこの方法で様子を知ることができたという。 二六二 今はあまり行なわれぬようになったことであるが、以前は疱《ほう》瘡《そう》に罹《かか》った者があると、まず神棚を飾って七五三《しめ》縄《なわ》を張り、膳を供えて祭った。病人には赤い帽子を冠らせ、また赤い足袋《たび》を穿《は》かせ、寝道具も赤い布の物にする。こうして三週間で全治すると、酒湯という祝いをした。この日には親類縁者が集まって、神前に赤飯を供え、赤い紙の幣束を立てる。また藁人形に草鞋《わらじ》と赤飯の握り飯と孔《あな》銭《せん》とを添えて持たせ、これを道ちがいに送り出した。この時に使う孔銭は、旅銭ともいった。そうしてまだ疱瘡を病まぬ者には、なるべく病気の軽かった人の送り神が歓迎せられた。 二六三 死人の棺の中には六道銭をいっしょに入れる。これは三途の河の渡し銭にするためだといわれる。また生まれ変わってくる時の用意に、親類縁者の者たちも各々棺に銭を入れてやるが、その時には実際よりもなるべく金額を多く言うようにする。たとえば一銭銅貨を入れるとすれば、一千円けるから今度生まれ変わる時には大金持ちになってがいなどという。また米麦豆等の穀物の類も同じような意味で入れてやるものである。先年佐々木君の祖母の死んだ時も、よい婆様だった。生まれ変わる時にはうんと土産《みやげ》を持ってきなさいと、家の者や村の人たちまでが、かなりたくさんな金銭や穀類を棺に入れてやったということである。 二六四 出棺の時に厩で馬がいななくと、それにおし続いて家人が死ぬといわれ、この実例もすくなくない。必ず厩の木戸口を堅く締め、馬には風呂敷を頭からかぶせておくようにするが、それでもいななくことがあって、そうするとやはりその家で人が死ぬ。また葬送の途中に路傍の家で馬がいななくような場合もある。やはり同じ結果になる。こういう際の異様な馬のいななきを聞くと、死人の匂いが馬に通うものであるかとさえ思わせられるという。 二六五 葬式に行って野辺で倒れた人は、三年経たぬうちに死ぬといわれているが、これには例外が多いそうな。佐々木君の知人も会葬の際に雪が凍っていたために墓で転んだことがあってその後三年以上経つが、依然として健康だということである。 二六六 青笹村の字糠《ぬか》前《まえ》と字善《ぜん》応《のう》寺《じ》との境あたりをデンデラ野またはデンデエラ野と呼んでいる。ここの雑木林の中には十王堂があって、昔この堂が野火で焼けた時十王様の像は飛び出して近くの木の枝に避難されたが、それでも火の勢いが強かったために焼けこげている。堂の別当はすぐ近所の佐々木喜平どんの家でやっているが、村じゅうに死ぬ人がある時は、あらかじめこの家にシルマシがあるという。すなわち死ぬのが男ならば、デンデラ野を夜なかに馬を引いて山歌を歌ったり、または馬の鳴輪の音をさせて通る。女ならば平生歌っていた歌を小声で吟じたり、啜り泣きをしたり、あるいは高声に話をしたりなどしてここを通り過ぎ、やがてその声は戦争《いくさ》場《ば》の辺まで行ってやむ。またある女の死んだ時には臼《うす》を搗《つ》く音をさせたそうである。こうして夜更けにデンデラ野を通った人があると、喜平どんの家では、ああ今度は何某が死ぬぞなどと言っているうちに、間もなくその人が死ぬのだといわれている。 二六七 戦争《いくさ》場《ば》とは昔この村にあった臼館と飯豊館との主人たちが互いに戦った処であると伝えられており、真夜中になると、戦う軍馬や人の叫びなどが時々聞こえたといわれている。 二六八 昔は老人が六十になると、デンデラ野に棄てられたものだという。青笹村のデンデラ野は、上郷村、青笹村の全体と、土淵村の似田貝、足洗川、石田、土淵等の部落の老人たちが追い放たれた処と伝えられ、方々の村のデンデラ野にも皆それぞれの範囲がきまっていたようである。土淵村字高室にもデンデラ野と呼ばれている処があるが、ここは、栃内、山崎、火石、和野、久手、角城、林崎、柏崎、水内、山口、田尻、大洞、丸古立などの諸部落から老人を棄てたところだと語り伝えている。 二六九 この地方ではよく子供に向かって、おまえはふくべにはいって背戸の川に流れて来た者だとか、瓢箪にはいって浮いていたのを拾って来て育てたのだとか、またはお前は瓢箪から生まれた者などと言うことがある。 二七〇 盆の十三日の夕方、新仏のある家では墓場へ瓢箪を持って行って置く。それは新仏はその年の盆には家に帰ることを許されず、幕場で留守番をしていなければならぬので、こうして瓢箪を代わりに置いてきて迎えて来るというわけである。土地によっては夕顔を持って行く処もあるという。 二七一 正月十五日の晩にはナモミタクリ、またはヒカタタクリともいって、瓢箪の中に小刀を入れてからからと振り鳴らしながら、家々を廻ってあるく者がある。タクリというのは剥ぐという意味の方言で、年じゅう懶《なま》けて火にばかり当たっている者の両脛などにできている紫色のヒカタ(火斑)を、この小刀をもって剥いてやろうと言って来るのである。これが門の口で、ひかたたくり、ひかたたくりと呼ばると、そらナモミタクリが来たと言って、娘たちに餠《もち》を出して詫びごとをさせる。家で大事にされている娘などには、時々はこのヒカタタクリにたくられそうな者があるからである。 二七二 春と秋との風の烈しく吹き荒れる日には、また瓢箪を長く竿の尖《さき》に鎌といっしょに結びつけて軒先へ立てることがある。こうすると風を緩《ゆる》やかにし、または避けることができるといっている。 二七三 この郷の年中行事はすべて旧暦によっている。十一月十五日タテキタテということをするのから始めて、二月九日の弓矢開きまで、年取りの儀式がいろいろとあって、一年じゅうで最も行事の多いのもこの期間である。正月の大年神に上げる飯をオミダマ飯というが、この飯を焚《た》くための新しい木を山から伐り出してくるのが十一月十五日で、この日伐ってきた木は夕方に立てて、その上に若柴で造った弓矢を南の方に向けてつける。これはこの木が神聖な木であるから鳥類に穢《けが》されぬためにこうするのだといわれている。 二七四 十一月二十三日は大師粥といって、小豆粥を萩《はぎ》の箸《はし》で食べる。この食べた箸で灰《あく》膳《ぜん》の上に手習いをすれば字が上《じよう》手《ず》になるという。灰膳とは膳の上に灰を載せ、これを揺すって平にならしたものをいうのである。またこの日には家族の者の数だけ団子を造り、その中の一つに銭を匿《かく》して入れておいて、この金のはいった団子を取った者は来年の運が富貴だと言って喜ぶ。大師様のことはよくわからないが、多勢の子供があった方で、この日に吹雪に遭って死なれたと言い伝えている。 二七五 十二月は一日から三十日までに、ほとんど毎日のように種々なものの年取りがあると言われている。しかしこれを全部祭るのはイタコだけで、普通は次のような日だけを祝うに止める。すなわち五日の御田の神、八日の薬師様、九日の稲荷様、十日の大黒様、十二日の山の神、十四日の阿弥陀様、十五日の若恵比寿、十七日の観音様、二十日の陸《おか》の神(鼬鼠《いたち》)の年取り、二十三日の聖徳太子(大工の神)の年取り、二十四日の気仙の地蔵様の年取り、二十五日の文殊様、二十八日の不動様、二十九日の御蒼前様等がそれで、人間の年取りは三十日である。 二七六 十日の晩の大黒様の年取りには枝大根を神前に供える。伝説には大黒様がある時あまり餠を食べすぎて死にそうになられた時、母神は早く生大根を食べるように言われたが、あいにく大根がなかったので道みち尋ねてゆかれると、川傍で一人の下婢が大根を洗っているのに行き逢われた。大黒様がそれを一本くれと言われると、女はこれは皆主人から数を調べて渡された物だから上げるわけにはゆかないと答えた。それでたいへん落胆しておられると、下女が言うには、君さま心安かれ、ここに枝大根があればと言って、折って差し上げたので、大黒様は命拾いをされたと言い伝えている。 二七七 正月は三日が初不祥の悪日であるから、年始、礼参りなどは一日二日で止め、この日は何もしないでいる。そのほかの正月の行事、または七草などの仕方は、他の地方とあまり変わらない。七草を叩く時にとなえる唱えごとは、 どんどの虎と、いなかの虎と、渡らぬさきに、なに草はたく、七草はたく。  というのであった。 二七八 以前遠野の町では正月の十一日に与作塩と言って、各戸で多少にかかわらず塩を買うことがあった。昔与作という塩商人がある年の正月十一日に塩を売りあるくと、それを買った家では家ごとに塩の中に黄金がはいっていた。それから吉例となって、この日に塩を買う習慣ができたのだそうな。 二七九 小正月は女の年取りである。この日は家の中の諸道具も年を取る日であるからよそに貸してあった物等も皆持ってきておくようにして餠を供える。鍵に供えるのを、鍵鼻様の餠といって、夜これを家族の者が食べれば丈夫になるといわれている。そのほか蔵や納屋の鼠には嫁子餠と言って二つの餠を供える。また狼の餠というのは藁《わら》苞《つと》に餠の切れを包んで山の麓や木の枝などに結びつけておく。これは狼にやる餠で、ほかに狐の餠ということもするのである。 二八〇 鴉《からす》呼《よ》ばりということも、小正月の行事である。桝《ます》に餠を小さく切って入れ、まだ日のあるうちに、子供らがこれを手に持って鴉を呼ぶ。村のあちらこちらから、 鴉来《こ》う小豆餠呉《け》るから来《こ》うこ。  と歌う子供の声が聞こえると、鴉の方でもこの日を知っているのかと思われるほど、不思議にたくさんな鴉の群れがどこからか飛んで来るのであった。 二八一 やがて夕日が雪の上に赤々とかげる頃になると、家ごとにヤロクロということをする。豆の皮や蕎麦《そば》の皮等を入れた桝を持ち、それを蒔《ま》きながら家の主人が玄関から城前までの間を、三度往復する。その時には次の歌を声高に歌うのである。   ヤロクロ飛んでくる。銭《ぜに》こも金こも飛んでくる。馬こ持ちの殿かな、ベココ(牛)持ちの殿かな。豆の皮もほがほが、蕎麦の皮もほがほが。    ヤロクロとは遠野弥六郎様という殿様のことだそうで、その殿様が八戸から遠野への国替えになって入部された時に、領内の民がお祝いをした行事が、今のヤロクロの元であると伝えられている。 二八二 この日にはヤツカカシ(窓ふさぎ)といって、栗の若木の枝を五寸ばかりの長さに切った物に餠、魚、昆布などの小さな切れを挿み、家の入口や窓などにさして、悪魔除けにする。 二八三 またナマゴヒキといって、 ナマゴ殿のお通り、もぐら殿のお国替え。  という文句をどなりながら、馬の沓《くつ》に縄をつけたのを引きずって、家の周囲や屋敷の中をまわりあるく。これはもぐら除けのまじないだといわれている。 二八四 果樹責の行事もこの日である。この地方ではこれをモチキリといっている。一人が屋敷の中の樹の幹を斧《おの》でとんと叩いて、 よい実がならなからば伐るぞ。  と言うと、他の一人が よい実をならせるから許してたもれ。  と唱える。 二八五 また夕顔立といって、栗の木の枝に、胡桃《くるみ》の若枝の削ったのを挿し、馬の沓などをそれに結んで吊《つる》し、その年の夕顔や南瓜《かぼちや》が豊作であるように祝うことも、小正月の行事の一つとして行なわれている。 二八六 福の神やナモミタクリの他に、田植え、畑蒔き、春駒など、小正月に行なわれる行事の種類はまだ幾つもある。田植えは女の子らが松葉を手に持ち、雪の上で田植えの真似《まね》をして餠をもらってあるくのである。畑蒔きは、雪を鍬《くわ》で畔立てして、よえとやら、ざいとやええと歌ってもらい歩く。また春駒というのは、鈴を鳴らして家ごとに白紙に馬を画いたのを配り歩き、これも餠をもらって行く。 二八七 今は警察の干渉があるので昔ほど盛んに行なわれなくなったが、カセギドリということも、小正月の行事である。カセギドリとは鶏の真似《まね》だといわれている。村《むら》吟《ぎん》味《み》で家ごとに一つずつ若者を出し、総勢二、三十人の組をつくり、若者たちは肩に藁で作ったケンダイというものを巻き、頭に白笠をかぶり、各々棒の先や腹に藁の切ったのを結びつけて持っている。各組とも互いに自分の部落は歩かないで、必ず他村に討って出る。またこれを迎える方でも防備の組の準備をして待っている。カセギドリはまず隣村の代表的な豪家に押しかけて行き、総勢軒下で腰を屈めて鶏の真似《まね》をしながら、持参の大桝(五升桝)を家の中に投げ込む。その家ではこの桝に餠をいっぱいにして出さねばならぬが、その際桝切りと言って、鉈《なた》で桝を削って切って出すのがさだめである。これを出すとたんにその村の若者たちは餠をやるまいとして、桶ハギリに水を汲んでおいたのを、カセギドリの頭から掛ける。と、そこで争闘となるのである。また他部落のカセギドリ同志が途で出逢った時には、双方共まず腰を屈めて鶏の真似をし、その後に争闘をして勝てば、負けた方の今までもらって来た餠を皆奪ってしまうのである。 二八八 田植え踊りもこの日である。やはり村吟味で家ごとに人を出し、この夜は男女うち揃って踊り、笠揃いを済ます。 二八九 翌十六日は、ヨンドリまたはヨウドリと言って、鳥追いである。未明に起きて家の周囲を板を叩いて三度まわる。 よんどりほい。朝《あさ》鳥《どり》ほい。よなかのよい時や、鳥こもないじゃ、ほういほい。  という歌を歌ったり、または、 夜《よ》よ鳥ほい。朝鳥ほい。あんまり悪い鳥こば、頭あ割って塩つけて、籠さ入れてからがいて、蝦夷《えぞ》が島さ追《ほ》ってやれ。ほういほい。  と歌って、木で膳の裏などを叩いて廻るのである。 二九〇 二十日はヤイトヤキ、またはヨガカユブシと言って、松の葉を束ねて村じゅうを持ち歩き、それに火をつけて互いに燻《いぶ》し合うことをする。これは夏になってから蚊や虫蛇に負けぬようにという意味である。 ヨガ蚊に負けな。蛇百足に負けな。    と歌いながら、どこの家へでも自由に入って行って燻し合い、鍵の鼻まで燻すのだという。 二九一 なおこの日は麻の祝いといって、背の低い女が朝来るのを忌む。もし来た時には、この松葉で燻して祓いをする。 二九二 正月の晦日《みそか》は馬の年取りで、餠を小さく四十八に切って、藁苞に入れて家の中に吊しておきこれを翌月の九日に出して食う。二月九日は弓矢開きで、この日田植え踊りの笠を壊し、これで正月の儀式が全く終わるのである。 二九三 この地方では、三月の節句に子供たちが集まってカマコヤキということをする。むしろ雛《ひな》祭《まつり》にまさる楽しみとされていて、小正月が過ぎてから学校の往還にも、カマコヤキの相談でもちきりであった。まず川べりなどの位置のよい処を選んで竈を作り、三日の当日になると、朝早くからいろいろな物を家から持ち寄る。普通一つの竈には五、六人から十七、八人ぐらいまでの子供が仲間になって、めいめい米三合、味《み》噌《そ》、鶏卵等の材料および食器や諸道具を持ち寄るが、なおその上にぜひとも赤《あか》魚《よ》、蜊貝《あさり》などが入用とされていた。炊事の仕事は十三、四歳を頭にして、女の子供が受け持ち、男の子は薪取り、水汲み等をする。そうして朝から昼下がりまでひっきりなしに御馳走を食べ合うが、それだけでは満足せず、ときどきよその竈《かま》場《ば》荒らしをはじめる。不意に襲って組打ちをして竈を占領し、そこの御馳走を食い荒らすのであるが、今はあまりやらなくなった。もう自分の方で腹いっぱい食べた後であるから、組打ちには勝っても食べられぬ場合が多い。佐々木君の幼少の頃、餓《が》鬼《き》大《だい》将《しよう》田尻の長九郎テンボが隣部落の竈場を荒らして、赤魚十三切れ、すまし汁三升、飯一鍋を一人で掻き込んだまではよかったが、そのために動けなくなって、川べりまで這って行くと、食べたものを全部吐いてしまったなどという笑い話も残っていて、この地方の人々には思い出の多い行事であった。 二九四 その他、的射り、ハマツキ、テンバタ(凧)上げ等をするのもこの日で、節句前の町の市日などには、雉子《きじ》の羽を飾り、紅白で美しく彩色をした弓矢や、昔の武勇談の勇士を画いたテンバタが店々に飾られた。 二九五 お雛様に上げる餠は、菱張りの蓬《よもぎ》餠《もち》の他に、ハタキモノ(粉)を青や赤や黄に染めて餡《あん》入《い》りの団子も作った。その形は兎の形、またはいろいろな果実の形などで、たとえば松パクリ(松《まつ》毬《かさ》)のようなものや、唐《とう》辛《がらし》、茄《な》子《す》など思い思いである、これを作るのは年ごろの娘たちや、母、叔母たちで、皆がうち揃って仕事をした。 二九六 五月五日は薄《すすき》餠《もち》を作る。薄餠というのは、薄の新しい葉を刈って来て、それに搗《つ》き立ての水切り餠を包んだもので、餅が乾かぬうちに食べると、草の移り香がして、なんとも言えぬ風味がある。薄餠の由来として語り伝えられている話に、昔ある所にたいそう仲のよい夫婦の者がいた。夫は妻が織った機を売りに遠い国へ行って幾日も幾日も帰って来なかった。その留守に近所の若者共が、この女房の機を織っている傍へ来て覗き見をしては、うるさいことをいろいろしたので、女房はたまりかねて前の川に身を投げて死んでしまった。ちょうど旅から夫が帰って来てこの有様を見ると、女房の屍に取りすがって夜昼泣き悲しんでいたが、後にその肉を薄の葉に包んで持ち帰って餠にして食べた。これが五月節句に薄餠を作って食べるようになった始めであったという。この話は先年の五月節句の日、佐々木君の老母がその孫たちに語り聞かせるのを聞いて、同君が憶えていたものである。 二九七 六月一日に桑の木の下に行くと、人間の皮が蛇の如く剥《む》け変わるといって、この日だけは子供らはけっして桑の実を食いにゆかない。 二九八 またこの日には馬《うま》子《こ》繋《つな》ぎという行事がある。昔は馬の形を二つ藁で作って、その口のところに粢《しとぎ》を食わせ、早朝に川戸の側の樹の枝、水田の水口、産《うぶ》土《すな》の社などへ、それぞれ送って行ったものだという。今では藁で作る代わりに、半紙を横に六つに切って、それに版木で馬の形を二つ押して、これに粢を食わせてやはり同じような場所へ送って行く。 二九九 七月七日にはぜひとも筋《すじ》太《ぶと》の素《そう》麺《めん》を食べるものとされている。その由来として語られている譚は、五月の薄餠の話の後日譚のようになっている。夫は死んだ妻の肉を餠にして食べたが、そのうちから特別にスジハナギ(筋肉)だけを取っておいて、七月の七日に、今の素麺のようにして食べた。これが起こりとなって、この日には今でも筋太の素麺を食べるのだという話である。 遠《とお》野《の》物《もの》語《がたり》 付・遠野物語拾遺  柳《やなぎ》田《だ》国《くに》男《お》 ------------------------------------------------------------------------------- 平成12年11月10日 発行 発行者  角川歴彦 発行所  株式会社 角川書店 〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3 shoseki@kadokawa.co.jp Kunio YANAGIDA 2000 本電子書籍は下記にもとづいて制作しました 角川文庫『遠野物語』昭和30年10月5日初版刊行 平成12年7月10日改版53版刊行